『則天武后(武照)=ねずみ?』の皇后位の獲得・・・子⇔午?

 2792日目・文字霊日記
 日の本の根の子、天津の御代の豊国を成せる姫・・・ネコ?
 「ねこ」とはダレか?・・・「ねずみ」とはダレか?
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 阿閉皇女=元明天皇・・・・・・・阿部(あべ)皇女?
                 安倍(あべ )内親王
 (あへのひめみこ)・・・ナゼ、「阿閉(あへ)」なのか?
 同音異字での使用なのか?
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 阿毎⇔海部・安倍・阿倍・阿閇・安部・阿部・阿拜・吾瓮⇔阿武・虻
                         天武后(武照)
        陪臣・陪審
        倍加・倍化
        部分・部署
        開閉・閉門・閉鎖
        崇拝・起拝・九拝・敬拝・再拝・参拝・跪拝
         拝跪・拝礼・拝殿・拝命・拝啓・拝見・拝借
        吾瓮海人烏摩呂=神功皇后新羅遠征に徴兵
       (あえのあまのおまろ, あへのあまのをまろ)
                朝鮮海峡の偵察に派遣され
               「国もみえず」と報告
        吾瓮 (あべ-の) 島
        神功皇后魏志倭人伝・・・卑彌呼
             翰苑・・・・・・卑彌娥と記録
ーーーーー
 『則天武后
 『則天武后(武照)』の皇后位の獲得には様々な確執があった後、「永徽六年(655)」の「王皇后」と「蕭淑妃」の「鴆毒誣告事件」を契機に正式な「高宗」の「皇后」となった。「王皇后」と「蕭淑妃」は『則天武后(武照)』の怒りをかって「杖刑一百」で刑死したのである。その時、「蕭淑妃」は『則天武后(武照)』に怨みと呪いの言葉で罵った。
 「『阿武』の奴め、私は『猫』となり、おまえが『鼠』なった来世で、おまえの咽喉を噛(咬)み切ってやる」
 と。『則天武后(武照)』を『鼠』に例えて罵ったのは彼女が「子年生まれ」であったから、との説があるかららしい。スナワチ、『則天武后(武照)』は「貞観二年(628)」の生まれ年の干支は「戊子(ツチのエのネ)」であった。そしてこの「戊子」は「ボシ」とも読むのだ。当然にも「古事記」や「日本書紀」の中では「ボシ」、「ホシ」、「ボジ」の同音異字に掛けられているとみるべきだろう。「星」、「干」、「補詞」、「補史」、「母子」、「母死」、「母字」、「母事」等の、「模字」で、「母鼠」の誕生と「音図見とりの描写」である。
 『則天武后(武照)』は憎くっき「王氏」を
 「蟒(ボウ・モウ・うわばみ・おろち)」、
 「蕭氏」を
 「梟(キョウ・シャオ・ふくろう・みみずく)」
 としてその記録上の「姓の漢字」を換えさせた。また後にも「武氏」を
 「蝮(フク・まむし)」、
 「李氏」を
 「キ(兀+虫=カイ・ケ)=まむし・とかげ・ひばかり」
 と凶悪な「字」をつけたらしい。日本では「孝謙称徳女帝」が「和気清麻呂」を「汚麻呂」とした記録がある。「キタナマロ」とは「記他名真賂」か、「企多名眞賂」である。「ヨゴレマロ」はアナタが漢字を当ててミてくれ・・・世後例間ロ、予後例眞賂・・・余呉、余語、四語・・・等の例を萬慮と。
 ドウ云うワケか気丈夫で勝気な『則天武后(武照)』も殺してしまった「王皇后」と「蕭淑妃」の亡霊、幽霊に悩まされて「竜朔三年(663)」に「西内の大明宮」から「蓬莱宮」に引越しし、さらには「長安」から逃れて「東都・洛陽」に住むようになった。
 唐王朝にとって「竜朔三年(663)」とは「白村江の海戦」での大勝利の年である

則天武后』と「現存・古事記」(1)・(51) 『則天武后』と「現存・古事記、現存・日本書紀f:id:naie:20191008121746j:plain

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 生没年 661(斉明七)~721(養老五)
 天智天皇の第四皇女
 母は
 蘇我倉山田石川麻呂の女
 姪娘(めいのいらつめ。宗我嬪)
 草壁皇子との間に
 軽皇子(文武天皇)
 氷高皇女(元正天皇)
 吉備皇女をもうけた
 漢風諡号元明天皇
 和風諡号
 日本根子天津御代豊国成姫
 (やまとねこあまつみしろとよくになりひめ)
 日
 の
 本
 の
 根=木+艮
 の
 子=一+了
 の
 天=二+人=一+夫
 の
 津=氵+聿・・・天津は環渤海湾地域の経済的中心地
       天津橋は隋の煬帝の庭園の川に架かる橋
       天津特大橋中国廊坊市および青県を結ぶ鉄道橋
       天津
       隋代、大運河が開通し
       南運河と北運河の交差地点の
       三会海口(金鋼橋三岔河口)が発祥
       中唐以降は南方からの食糧輸送基地
       金代には直沽寨
       元代には海津鎮が設置
       軍事拠点の要衝
       1400年(建文二年)
       朱棣(永楽帝)が兵を率いて南下
       皇位を簒奪
       皇帝が河を渡った場所を
       天津の地名とした
       1404年(永楽二年)
       軍事基地としての衛が設置
       翌年には天津左衛
       2年後には天津右衛が設置
       清代の1652年(順治九年)
       三衛が統合され天津衛とされ
       1725年(雍正三年)に天津州
       1731年(雍正九年)に天津府と改称
 御=彳+卸=彳+午+止+卩
 代=イ+弋
 豊=曲+豆
  =豐=丰+山+丰+豆
   豐=古代中国。殷の時代
     周の
     文王が
     岐山から・・・陝西省鳳翔県の北東にある山
            天柱山
            西周 (周 ) の始王,武王の3代前の
            祖である
            古公亶父 (ココウタンポ) が
            豳(ヒン)から移り
            武王の父
            文王が豐京 (西安付近) に
            都を移すまでの間
            この山の南麗を都にした
            文王が
            豊京に都を定めるまで周の都
            陝西省宝鶏市東方
            岐山県の東北にある山
            南麓は古公亶父(タンポ)が
            北狄に追われて
            豳(ヒン)から移りすみ
            周室の本拠地
            文王が豊京に遷都した後も
            周の聖地・箭括(センカツ)嶺
         本拠地を移した
         灃河のほとりの
         豊邑
         長安陝西省西安市)の西 
 國=囗+或=囗+㦯(或)・・・逆字の「𠮛」の異体字「𠫔」
 成=万+戈=異体字「𢦩・𧶔」・・・勹の変形?
 姫=女+臣=姬=女+𦣞
 万葉集には
 阿閉皇女
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 707(慶雲四)年
 文武天皇崩御の後
 遺詔により即位(47歳)
 文武の遺子
 首(当時7歳)皇子(聖武天皇)を
 将来即位させるための
 中継的な天皇
 同年七月二十一日月日
 授刀舎人寮を新設
 十二月二十七日
 諸司の礼儀を正す詔
 708(和銅一)年二月十五日
 平城遷都の詔
 同年三月十三日
 石上麻呂左大臣
 藤原不比等を右大臣
 に任命
 五月十一日
 和銅銀銭を発行する
 (翌年八月に廃止)
 七月十五日
 議政官を御前に召し
 善政の努力を継続せよと勅
 八月十日
 和銅銅銭発行
 「和同開珎」
 九月十四日
 菅原(奈良市菅原町・平城宮の西)行幸
 九月二十日
 平城巡幸
 九月二十二日
 山背国
 相楽郡
 木津川畔の
 岡田離宮行幸
 九月二十七日
 春日離宮に至る
 十一月二十一日
 即位大嘗祭
 十一月二十五日
 県犬養三千代
 橘宿禰の姓を賜う
 ↓↑
 709(和銅二)年二月二日
 筑紫観世音寺造営の促進を命ず
 同年八月
 平城行幸
 十二月
 再度平城行幸
 ↓↑
 710(和銅三)年三月十日
 平城京遷都
 ↓↑
 711(和銅四)年七月一日
 律令を正しく行うよう
 諸司に精勤を命ず
 九月十八日
 太安万侶
 を
 稗田阿礼誦む所の
 旧辞を撰録して献上させる詔(古事記序)
 十月二十三日
 蓄銭叙位令の詔
 十二月六日
 王臣の山野占有を禁ずる
 ↓↑
 712(和銅五)年一月二十八日
 『古事記』三巻
 太安万侶により撰上
 五月十七日
 律令が行き渡らず
 弾正台に
 月別三度諸司を巡察させ
 非違を正させる
 巡察使を毎年派遣を決める
 ↓↑
 713(和銅六)年五月二日
 風土記編纂の詔
 六月
 甕原離宮(恭仁京付近)行幸
 十月八日
 諸寺の田野占有を禁ず
 十一月五日
 文武天皇の嬪
 石川刀子娘
 紀竈門娘
 の名を貶し、嬪を廃す・・・?
 首皇子
 即位の障害を除去するための措置?
 十一月十六日
 親王太政大臣に対し
 五位以上の官人は
 起立礼(床下に降り立っての拝礼)を
 六位以下は跪伏礼(座より避け蹄ずく)を命ず
 ↓↑
 714(和銅七)年二月十日
 紀清人
 三宅藤麻呂
 に国史撰修を命ずる
 『日本書紀』編纂事業着手
 閏二月
 二十二日
 甕原離宮行幸
 五月一日
 大納言 兼
 大将軍 正三位
 大伴安麻呂・・・・・大伴の安麻呂⇔太安萬侶?
 が薨じ従二位を追贈
 首皇子聖武天皇)の立太子を実現
 ↓↑
 715(和銅八)年二月二十五日
 吉備内親王
 (草壁皇子元明天皇の子
  長屋王の室)
 の男女を
 皇孫(二世王)の扱いとする
 三月一日
 甕原離宮行幸
 七月十日
 再び甕原離宮行幸
 九月二日
 退位(55歳)
 皇太子
 首皇子聖武天皇)は
 年歯幼弱で深宮を離れ得ないため
 娘の
 氷高内親王(元正天皇)
 を中継ぎとして即位させる
 ↓↑
     聖武天皇
 40天武天皇(曽祖父)・・・大海人
 41持統天皇(曾祖母)・・・鸕野讃良
 ↓↑
     聖武天皇
 草壁皇子(祖父)・・・日並(ひなみし)
           岡宮御宇天皇
           岡宮天皇
           長岡天皇
 43元明天皇(祖母)・・・阿閉?・・・阿部?
 ↓↑
     聖武天皇
 42文武天皇(父)・・・珂瑠(軽)
 44元正天皇(父の姉)・・・氷高(日高)
 ↓↑
 45聖武天皇(草壁の孫)・・・首
 ↓↑
 46孝謙=48称徳天皇・・・阿部?・高野姫
 ↓↑
 元明天皇陵(奈保山東陵)
 721(養老五)年五月三日
 不豫
 同年十月十三日
 病床に
 長屋王
 藤原房前
 を召して後事を託す
 房前を
 元正天皇の内臣に任命
 十二月七日
 崩御(61歳)
 大伴旅人が陵墓の造営
 十二月十三日
 奈保山東陵に葬られる(火葬)
 遺詔により喪の儀を用いず
 この間
 藤原不比等らを重用し
 律令官制の整備を進めた
 ↓↑
 万葉集には三首
 01/0035・0076・0078(一書云太上天皇御製)
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 阿閉皇女=元明天皇
 (あへのひめみこ) 
 草壁皇子
 との間に
 軽皇子(文武天皇)
 氷高皇女(元正天皇)
 吉備皇女
 をもうけた
 漢風諡号元明天皇
 和風諡号は日本根子天津御代豊国成姫
 (やまとねこあまつみしろとよくになりひめ)
 天皇
 「万葉集」には
 阿閉皇女・・・阿閉(あへい)?
ーーーーー
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 阿閉 貞征・・・阿閉(あつじ?)
 (あつじ さだゆき)
 戦国時代から
 安土桃山時代の武将
 浅井氏
 織田氏の家臣
 近江国
 山本山城主
 阿閉は、阿辻ともする・・・?
 代々北近江
 伊香郡の国人
 浅井氏が
 京極氏に代わって勢力を拡大すると
 これに従うようになった
 貞征は浅井家の重臣として
 北国街道や琵琶湖の湖北を見渡せる要害
 山本山城を任された
 ↓↑
 元亀元年(1570年)
 姉川の戦いに1000騎を率いて参陣
 磯野員昌
 浅井政澄
 に続く3段目に布陣
 姉川の戦い後も
 対織田戦に参陣
 山本山城が
 織田信長の攻撃を受けたが
 撃退
 天正元年(1573年)
 信長に内応し
 山本山に織田軍を引き入れ
 小谷城は孤立し
 主家滅亡の遠因をつくった
 八月八日
 子・貞大と共に
 信長に降参
 後すぐに
 朝倉攻めの先手を務めた
 このとき
 磯野員昌
 堀秀村
 と共に、一時
 越前国
 木ノ芽城
 の守備についた
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 『浅井三代記』で
 これらの功により
 伊香郡を与えられ
 北江は
 羽柴秀吉
 一職支配権が与えられ
 貞征は
 伊香郡内の本領と
 浅井郡管浦の地などを
 安堵され
 秀吉の
 与力とされた
 ↓↑
 天正三年(1575年)
 越前一向一揆にも
 秀吉と共に参戦
 次第に秀吉の圧迫が募り
 竹生島の寺領の横領で訴えられたが
 竹生島にある扶持の過半を
 秀吉に取られたと
 貞大が信長側近の
 菅屋長頼に弁明している
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 天正五年(1577年)
 秀吉は中国攻めで
 播磨国へ赴くが
 阿閉父子は近江に留まり
 信長の旗本に組み入れられた・・・
 天正六年(1578年)十一月
 有岡城攻めに
 信長に従って参戦
 天正九年(1581年)
 伊賀攻め
 天正十年(1582年)一月十五日
 の左義長の爆竹でも
 近江衆のなかに名がみえる
 同年三月
 甲州征伐にも
 信長に随従
 ↓↑
 天正十年(1582年)
 本能寺の変の後
 明智光秀に加担
 秀吉の居城
 長浜城を占領
 山崎の戦いに参加し敗戦
 秀吉方に捕縛され一族全て処刑
 『天正記』『惟任退治記』によれば
 磔刑
 藤堂高虎
 渡辺了
 も一時期
 貞征のもとで
 家臣として仕えていた・・・

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 ???・・・阿閉=あつじ=あへ=元明・・・阿部?
 草壁=日下部=久坂部=草加部=苅部・・・・
 「日下部朝倉」・・・???