武曌(明+空)・暗(日+音)+空⇔闇夜⇔日食・日蝕=665年

 2770日目・文字霊日記
 沙和地(素名和地)、海人(阿每訊)の武の后・・・
 照=曌(明+空)=媚娘=女+眉+女+良
 武曌(明+空)・・・暗(日+音)+空⇔闇夜⇔日食・日蝕
 ↓↑

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 則天武后
  ・・・厠顛武行(武孝・武考)?
  厠=厂+貝(目ハ)+刂
   =かわや=はばかり=便所
   =手水(ちょうず)
   =東司(トウス)=西浄(セイチン)
   =トイレット (toilet)
  顛=顚=傎=テン
  顛=真+頁
   十+具+頁
   十+目+一+八+頁
 顚=眞+頁
   七+目+乚+八
 傎=イ+眞
   亻+ヒ+具
   亻+ヒ+目+乚+八
   真・眞
   頁(おおがい・いちのかい
     ケツ・ページ)
   テン
   いただき
   くつがえる
   たおれる
   いただき・頭のてっぺん
   物のてっぺん・山の頂上
   はじめ・はじまり・もと
   くつがえる・ひっくりかえる
   たおれる・たおす・つまずく
   おちる・転がりおちる
   正気を失っている・正常ではない
   顛末・天頂
   武の行・・・十一月初旬
   皇后になった武照は
   厠に監禁されていた・・・?
   王氏(前皇后)
   と
   蕭氏(前淑妃)
   を棍杖で百叩きに処し処刑・・・本当カナ・・・?

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 ↓↑
 637年
 太宗の後宮に入り
 才人(二十七世婦の一つ・正五品)
 太宗死後
 女性の道士(坤道)となり
 道教寺院(道観)で修行・・・?
 ↓↑      ↓↑
 かわや づめ=厠詰め
 せっちんづめ=雪隠(厠)詰
        将棋で相手の王将を
        盤の隅に追い込んで詰めること
        逃げ場のない所へ追い詰めること
        雪隠(厠)責め・・・仕置き

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ーー↓↑ーー
 おしっこ=古語「しと」
 ↓↑  「ゆばり・ゆまり(湯放)」
     粗相の語源は「麁相」・・・
     失禁=オランダ語
       「lekheid(漏れ)」の訳語
        蘭方医が考案
     おしっこ=pee(ピー)・urine(ユリン)
          wee(ウィ)
          piss(ピス)・Don’t piss me off!
     うんこ =poo(プー)・Shit(シット)
          stool(ストゥール)
          Bowel Movement(バウルムーブメント)
          feces(フィーシーズ)
          excrement(エクスクレメント)
 ↓↑        Bullshit(ブーシッ)
 stool(ストゥール)
 stool(スツール)
 背もたれと肘掛けのない椅子
 通例3~4本の脚が付いている
 ひじ掛け・背のない腰掛け
 踏み台・ひざつき台・足台(footstool)
 《園芸》親木・親株・親株から出る若枝
 狩猟で使うおとりの留まり木
 おとり
 トイレ・腰掛け式便器
 ↓↑
 stool pigeon
 椅子の鳩
 密告者・スパイ・犯罪組織のおとり
 An informer or spy.
 情報提供者、スパイ
 木の根元や切株
 ↓↑
 「首まき」
 comforter
 muffler
 neckerchief
 ↓↑
 襟巻き(えりまき)
 首巻き(くびまき)
 マフラー(muffler)
 首の周囲に巻く
 細長い長方形をした厚手の布で、防寒具
 カシミヤの襟巻き
 襟巻きを巻く人
 スカーフ(scarf)
 ↓↑
 首巻
 muffler
 scarf
 肩掛け
 shawl
 stole
 ストール(stole)=肩掛け
 ↓↑
 スティール (steal,steel,steele)
 steal(盗む)
 ↓↑
 steel
 鋼 (steel)=鉄の合金
 スチール線・スチール呼線
 配管内にケーブルを通す場合に使用する通線工具
 スティール・ギター
 still
 スチル写真 (still)
 写真・静止画・・・
 stall=売店・露店・屋台
 ストール
 stalls・stalling・stalled
 ↓↑
 stall=畜舎の1頭用の仕切り
     家畜小屋・馬屋・牛舎
     競馬のスターティングゲート
     トイレ・シャワーなどの1人用個室
 ↓↑
 stall=時間を稼ぐために決断を遅らせる
     何らかの行動をとるのを先に延ばす
 ↓↑
 stall=売店・露店・屋台
     馬・牛を入れる馬屋のひと仕切

ーー↓↑ーー
 則天武后・・・「悪女」だったのか・・・?
 ↓↑
 帝位を継いだ高宗の
 皇后
 王氏
 と
 蕭淑妃
 が対立
 皇后が
 高宗に
 武照の入宮を推薦
 武照は
 昭儀(九嬪の一つ、正二品)として
 後宮に入宮
 ↓↑
 永徽六年(655年)六月
 高宗は武照を
 昭儀から新たに設けた
 宸妃(皇后に次ぐ位)にさせようとし
 宰相の
 韓瑗
 と
 来済の反対
 ↓↑
 同年
 永徽六年(655年)
 中書舎人の
 李義府
 などの側近が
 皇后廃立
 と
 武照擁立の意図を揣摩
 許敬宗
 崔義玄
 袁公瑜
 らの大臣が結託し
 高宗に
 武照立后の上奏文を送った
 高宗は
 王皇后を廃し
 武照を皇后に立てることを
 重臣に下問
 ↓↑
 太宗の
 皇后
 長孫氏の兄で
 高宗の伯父
 長孫無忌
 褚遂良
 于志寧
 李勣
 の4人
 下問に
 長孫無忌
 褚遂良
 は反対
 于志寧は賛成も反対も言わず
 李勣が
 皇后の廃立を容認
 ↓↑
 永徽六年(655年)
 10月13日(11月16日)
 高宗は詔書
 「陰謀下毒」の罪
 により
 王皇后
 蕭淑妃
 2名を庶民に落とし投獄
 親族は官位剥奪し
 嶺南への流罪を宣告
 7日後
 詔書を発布で
 武照を立后
 諫言した
 褚遂良を
 潭州都督へ左遷
 ↓↑
 潭=氵(水)+覃・・・譚=言+覃
   氵+覀+早
   氵+覀+日+十
     襾・西・覀=ア
    (おおいかんむり・にし・かなめかしら)
   タン
   ふち
   水を深くたたえた所
   潭水・深潭・碧潭
   底深いさま
   潭潭
   タン・ジン・シン・イン
   みぎわ・ふち・ふかい
   水辺・岸・ほとり
 ↓↑
 永徽六年(655年)
 十一月初旬
 皇后になった武照は
 監禁されていた
 王氏(前皇后)
 と
 蕭氏(前淑妃)
 を棍杖で百叩きに処し
 処刑

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 ↓↑
 トイレ=雪隠=セッチン
     雪=「雨(丅・冂・::)+彐(彑・∃・⺕)」+「隠す」
          丅(カ)=下(した・ゲ)の
               冂(囲いの穴)を
               ::(水)を濯いで隠す
       「雨=あめ・雨水・::(上水で下水に流す)」
       「彐・彑・∃・⺕=いのこがしら・ケイ・ブタの頭
                (彑頭)、いのこがしら(豕頭)
              手を意味する「⺕」・・・鳥の爪の形象
                鷲摑みの「手=指+爪」、「熊手」
                フォーク=fork・ホーク=hawk
                フォーク=folk folk song・
                フォルクス(ドイツ語 Volks)=国民、大衆の
       「雪=白い有紀」を隠す?・・・接沈をカクス?
 ↓↑      ↓↑
 唐の
 雪竇(セッチョウ)禅師が
 霊隠寺の厠をつかさどった故事?
 唐の禅師
 雪峰義存が厠を掃除して大悟した故事?
 ↓↑
 「ちょっと花を摘みに」
 フランス貴族女性の用足し隠語
 ↓↑
 尿瓶(しびん)
 尿を受けるための瓶状の容器
 尿筒(しとづつ)=完筒・環筒(かんづつ)
 ↓↑

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 おまる(御虎子)
 「お 」は接頭語
 「まる」は
 大小便をする動詞
 「まる=放る」
 「御虎子」の当字は「糞便」の丸、渦巻き形象・・・
 「おまる」=木製の浅い桶で小判形
 小判を「虎(とら)の子」・・・?
 ↓↑
 小判の流通は
 慶長六年(1601年)
 徳川家康
 後藤家に命じて鋳造させた
 慶長小判
 万延元年(1860年
 万延小判まで10種発行
 ↓↑
 天正十六年 (1588年)
 豊臣秀吉
 後藤徳乗に命じて鋳造させた
 天正大判
 ↓↑
 金=原子番号79の元素
      第11族元素に属する金属元素
   こがね・くがね
 ↓↑ ↓↑
 武川鎮軍閥(ブセンチングンバツ
 中国南北朝時代
 西魏
 北周
 隋・唐
 の支配層を形成していた集団
 関隴集団とも・・・
 ↓↑
 武川鎮は「王気」が聚まる所
 (趙翼の著『二十二史箚記』)
 ↓↑
 「関隴集団」
 貴族集団=論証
 (陳寅恪の『唐代政治史述論稿(1944年)』
 ↓↑
 武川鎮
 北魏前期の首都
 「平城」
 を北の
 柔然から防衛役割の6つの鎮の一
 北魏では
 各国境に
 匈奴鮮卑系の名族を移り住ませ(鎮民)
 鎮将を置き、当地の軍政を行わせ、防衛を行っていた
 他の地域の鎮は
 北魏の中央集権化が進むと共に廃止
 六鎮のみはそのまま残され
 鎮民たちは
 選民として特別待遇を受けてた
 ↓↑
 北魏漢化政策
 六鎮の地位は下落
 孝文帝により
 洛陽遷都で
 六鎮はほとんど
 流刑地になった
 六鎮の者たちは不満を抱き
 六鎮の乱を起こし
 北魏全体を混乱させた
 ↓↑
 乱は
 爾朱栄
 が収めたが
 北魏の混乱は
 軍閥割拠状態となった・・・
 ↓↑
 戦乱を勝ち抜いたのが
 六鎮の一
 懐朔鎮出身
 高歓
 武川鎮出身
 宇文泰
 それぞれ皇帝を擁立し
 北魏
 高 歓の東魏
 宇文泰の西魏陝西省甘粛省
 に分裂
 武川鎮軍閥=関隴集団(関隴貴族集団)とも
 関=関中(陝西省
 隴=隴西(甘粛省南東部)
 ↓↑
 宇文泰は
 東魏に対抗するために
 府兵制を創始
 軍を
 十二大将軍・八柱国
 をその指揮官とした
 大将軍・柱国には
 武川鎮出身者を就け
 西魏
 北周
 の支配者集団となった
 北周末期より貴族化が進み
 軍閥と呼ぶのはふさわしくないので、
 関隴集団と呼ぶ・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・
ーー↓↑ーー
 武氏の出身・・・天武天皇の縁戚・・・?
 ↓↑
 父の
 武士彠(ぶしかく)・・・武士のハカリ?
    ・・・彠=尋+蒦(艹+隻)
           蒦=艹+隻
             艹+隹+又
    カク
    はかる・指で長さを測る
    手でとらえる・手に持つ
       彠=クワク・ワク・カク・キャク・ヤク
        はかる・ものさし・のり    
 は
 山西省
 商人(材木商)で
 隋の煬帝
 唐の高祖
 に仕えた役人
 ↓↑ ↓↑
 武士彠(ブシャク)
 ↓↑
 577年~635年
 字は
 信明
 本貫・・・本を貫く
 は
 并州・・・并(併立・併合)の州
 文水県・・文の水を懸ける
 財産家の
 武華の子・・・武の華の子?
 ↓↑
 隋末に鷹揚府隊正
 唐公
 李淵
 太原留守となると
 士彠は行軍司鎧参軍
 劉弘基
 長孫順徳
 が
 李淵の命を受けて兵を集め
 副留守の
 王威・・・・王の威(おどす・たけし・威嚇)
         威=戊+一+女・・・権威
 高君雅・・・高の君の雅(からす)・・・加羅
 らが
 その意図を疑ったが
 士彠は
 「唐公の客である」と誤魔化した
 司兵参軍の
 田徳平・・・田の徳(悳)の平(たいら)
 が募兵の状況を
 王威に訴えようとすると
 士彠は
 田徳平を脅して
 報告を止めさせた
 ↓↑
 李淵が起兵
 士彠は大将軍府鎧曹参軍
 長安の平定に参加した功績により
 光禄大夫となり
 太原郡公・・・太の原の郡の公
 に封ぜられた
 ↓↑
 士彠は
 工部尚書に累進
 応国公に封ぜられ
 利州都督
 荊州都督を歴任
 635年死去
 礼部尚書の位を贈
 諡は「定」・・・さだむ・・・サダム・フセイン
 ↓↑
 永徽年間
 士彠の次女の
 武照が皇后に上ると
 并州都督・司徒の位を追贈
 周国公に追封
 ↓↑
 咸亨年間
 太尉・太子太師
 の位を加えられ
 太原郡王に追封
 ↓↑
 武照が朝政をみるようになると
 士彠は
 忠孝太皇と追尊
 崇先府が建てられて、属官が置かれ
 五代にさかのぼって
 王位を追贈
 ↓↑
 武周が建てられると
 東都に
 武氏七廟が建てられ
 帝に追冊
 ↓↑
 先天年間・・・睿宗-李旦の治世の元号
        712年~713年・・・古事記(712年)
 士彠の
 帝号が削られ
 太原王とされ
 武氏七廟も廃止された
 ↓↑
 士彠は
 相里氏・・・ 相の里
 を妻とし
 武元慶
 武元爽
 の二男をもうけた
 ↓↑
 後
 楊氏(栄国夫人、楊達の娘)
 を後妻とし
 三女をもうけた
 長女は
 賀蘭越石・・・加賀・和蘭(阿蘭陀)
        越前・越中・越後・石川・・・?
 の夫人となり
 韓国夫人・・・「韓国」の夫人・・・?
 に封ぜられた
 次女の
 武照は
 高宗の皇后、帝位に上った
 三女は
 郭孝慎の夫人・・・「郭務悰」の縁戚・・・?
 ↓↑
 兄に
 武士棱
 武士譲
 武士逸
 がおり
 兄の
 武士譲の子として
 武懐亮(惟良)
 武懐道
 武懐運(弘度)
 ら
 ↓↑ ↓↑
 則天武后
 14歳
 太宗の後宮に入り
 武照・・・「武を照らす持統(字問う)天皇
 と称す
 ↓↑
 太宗の死後
 尼になったが
 還俗し
 太宗の息子の
 高宗の後宮に入った
 ↓↑
 高宗の皇后となり
 後
 高宗が病弱で・・・???
 「垂簾の政」を執政
 ↓↑
 高宗と
 皇后
 武氏(則天武后)は
 竜門に
 毘盧舎那仏
 の
 大仏造営を発願
 武后は自らの
 脂粉銭(お化粧代)
 二万貫を寄付
 大仏の顔は
 武后に似せて造られた
 ↓↑
 則天武后
 唐の高宗の皇后
 664年に実権を握る・・・
 ↓↑
 唐書・麟徳暦(儀鳳暦)
 665年・・・日蝕
 為入蝕限、望則月食、朔入限、月在裏者、日蝕
 志彙編七 p.2024
ーー↓↑ーー↓↑
 正始八年春二月朔
 西暦247年3月24日の日食
 ・・・???・・・
 天文律暦志にのる日食限の記述の変遷
 ↓↑
 宋書・景初暦
 237年
 入交限数以上者、朔則交會、望則月蝕。
 志彙編六 p.1696
 ↓↑
 隋書・皇極暦
 未施行(604年)
 交限以上者月食、月在[裏]者日食
 志彙編六 p.1957
 ↓↑
 唐書・戊寅元暦
 619年
 交限巳上、望則月食、其朔在内道者、朔則日蝕
 志彙編七 p.1986
 ↓↑
 唐書・麟徳暦(儀鳳暦)
 665年
 為入蝕限、望則月食、朔入限、月在裏者、日蝕
 志彙編七 p.2024
 ↓↑
 唐書・大衍暦
 728年
 望入蝕限、則月食、朔入蝕限、月在陰暦則日蝕
 志彙編七 p.2024
 (古代日食計算における陽暦法の発見)
 by http://www.wagoyomi.info/youreki.html
ーー↓↑ーー↓↑
 夏の第4代
 仲康の時代
 天文官の
 羲氏・・・・・魏志
 と
 和氏・・・・・倭史・和史?
 が酒色に溺れ
 天文観測をさぼり
 日蝕の予報を出さず
 暦を乱し死罪になった
ーー↓↑ーー↓↑
 53年、158年、247年年、248年
 の4回の皆既日食
ーー↓↑ーー↓↑
 郭 守敬(かく しゅけい)・・・郭・・・郭務悰
 1231年~1316年
 元朝に仕えた
 天文学者、暦学者、水利事業家
 字は若思
 邢台(河北省)出身
 中国暦法
 「授時暦」を作成
 ↓↑ ↓↑
 ・・・663年は
   「白村江海戦」勝利
 ↓↑ ↓↑
    劉仁軌=(リュウジンキ
    602年~685年3月2日
    字は正則・楽城文献公・汴州尉氏県の人
    武徳年間
    息州参軍、陳倉尉
    折衝都尉の
    魯寧なる者が横暴で、これを鞭打って殺害
    太宗に詰問されると
   「私が辱められたために殺しました」
    と答え太宗に気に入られ
    咸陽の丞に任ぜられた
    給事中にまで昇るが
    権臣の
    李義府に憎まれ
    青州刺史に左遷
    顕慶五年(660年)
    遼東征伐で
    漕運に失敗した罪を着せられ
    59歳にして一兵卒に落とされ
    蘇定方率いる唐軍が
    百済の都泗沘城を攻め
    配下の
    劉仁願が
    義慈王を捕らえ、百済を滅亡させる
    翌、龍朔元(661年)
    百済の遺臣
    鬼室福信・・・鬼の室の福の信
    らが
    泗沘城の奪還を試み
    劉仁願
    を包囲
    劉仁軌
    は自ら志願し
    検校帯方州刺史を拝して援軍に赴く
    龍朔三年(663年)9月
    百済残党を支援する
    倭の水軍を
    白村江で迎撃
    400余隻の軍船を焼き払って大勝
    百済故地の諸城を平定
    屯田を営み庶民を安心させた
 ↓↑ ↓↑
    麟徳二年(665年)
    高宗が泰山で封禅
    新羅百済耽羅・倭
    四国の首領を率いて参加
    大司憲を拝し
    右相兼検校太子左中護に進み
    楽城県男に封ぜられた
    総章元年(668年)
    熊津道
    安撫大使
    兼
    浿江道総管
    李勣に従って
    高句麗平定
    金紫光禄大夫を拝し
    太子左庶子同中書門下三品に進んだ
    咸亨五年(674年・上元元年)
    鶏林道大総管に任ぜられ
    新羅
    文武王
    を討って(唐・新羅戦争)大勝
    翌年
    左僕射となって朝政に参画
    嗣聖二年一月二十二日(685年3月2日)
    文昌左相同鳳閣鸞台三品
    として在職中に死亡・享年84
    死後
    開府儀同三司并州大都督を贈られ
    高宗の陵墓である
    乾陵に陪葬
    子息
    劉滔
    劉濬
 ↓↑ ↓↑
    劉仁願・・・理由の訊を願う・・・?
 ↓↑ ↓↑
    劉仁願=字は士元・彫陰大斌の人
   「蘇定方」・・・ヨミガエル定の方
               (情報・定法)
    の部下
    百済平定に従軍
    660年(顕慶五年・斉明天皇六年)9月3日
    蘇定方より唐兵1万を預けられ
    武烈王(金春秋)
    の子の
    金仁泰
    の率いる
    新羅兵七千とともに
    百済
    泗沘城に留鎮
    9月23日
    百済残存兵の急襲に遭い
    外柵まで侵入されたが
    内柵は防衛
    新羅
    武烈王(金春秋)
    が出陣し
    泗沘南方の柵城を攻撃し
    劉仁願
    らを救援
 ↓↑ ↓↑
    百済残存勢力に悩まされ
    唐本国より派遣された
    帯方刺史
    劉仁軌
    の援軍に助けられた
    この間
    李義府(614年~666年)=李猫?
        瀛州饒陽県の人
        兼修国史・弘文館学士
    に
    劉仁軌
    を殺害するよう打診され
    劉仁願はこれを拒絶・・・???
 ↓↑ ↓↑
    ・・・?
   「李義府」は
    武后と確執
    武后派の
    李勣
    らと対立
    高宗を担ぎ出し
    保身を図ったが
    663年
    唐政を著しく失墜させたと糾弾
    崔州・・・崔=山+隹
           サイ・スイ
           たかい
           まじわる・まじりあう
           いりみだれる
    に配流
    666年死亡・享年53
   「笑いに刀を隠す」
    義府の人柄と行いを言い表したもの
    上辺は柔らかいのに物を害するので
   「李猫」とも・・・
 ↓↑ ↓↑
    663年(龍朔三年、天智天皇二年)9月
    白村江の戦い
    劉仁軌と別行動
    孫仁師
    新羅
    文武王とともに陸軍を率いて
    百済
    柔城を陥落させた
    後
    劉仁軌は
    百済を鎮守したが
    劉仁願は帰国し
    高宗に劉仁軌の功績を報告
    上官儀によって
    劉仁軌
    と共に君子と賞賛
 ↓↑ ↓↑
    後
    劉仁願は
    百済鎮将とし
    熊津都督府に再度来鎮
    664年(麟徳元年)2月
    百済の元太子
    隆・・・
    と
    新羅の王弟
    金仁問・・・金の尋問?
    との
    和親誓盟に立ち会った
    同年(天智天皇三年)5月
    郭務悰・・・
    らを派遣
    667年(乾封二年、天智天皇六年)
    熊津都督府
    熊山(ユウセン)県令
    上柱国
    司馬法聡を派遣し
    坂合部磐積
    らを
    筑紫の大宰府に送還・・・
 ↓↑ ↓↑
   『新唐書』高麗伝
   『資治通鑑』(唐紀17)の
    668年(総章元年)8月条
    卑列道(江原道安辺郡安辺)摠官
    右威衛将軍
    劉仁願は
    李勣による
    高句麗征討戦で
    兵を逗留させたため
    唐に召し返され
    姚州(雲南省)に流罪にされた・・・
 ↓↑ ↓↑
   『三国史記』「新羅本紀(文武王8年条)」
    平壌戦の年(668年)の6月22日
    劉仁願が
    高句麗
    漢城ほか2郡12城を落とした旨を
    知らせる使者を
    新羅王に派遣し
    王は返礼の使者を立てて祝賀
    「白村江の戦い」まで
    唐兵1万に新羅は衣食を供給し
    劉仁願にはその恩義に報いた
   「新羅本紀」
    文武王十一年条
    新羅王は
    薛仁貴
    への返書の中で
    劉仁願以下兵士に至るまで
    骨皮は漢地(唐)のものだとしても
    血肉は新羅のものであると記す・・・
    その後の
    劉仁願の消息は不明
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 690年に国号を周に改める
 武周
 鳳凰や赤雀などの瑞祥で
 国号を
 「唐」から「周」に改め
 聖神皇帝と称し
 武氏一族を王とした
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 705年死亡
 国号は唐に復された
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 中宗の時
 皇后
 韋后
 が政治を乱し
 則天武后と併せて
 「武韋の禍」
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 高宗の死後
 実子の
 中宗
 睿宗
 を相次いで廃帝
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 690年
 武照は
 皇帝に即位
 聖神皇帝と称し
 国号を周(武周)に改め
 都を
 洛陽として神都と改称
 中国史上、唯一の女帝
 (在位690~705年)
     ・・・705年・乙巳
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     安禄山誕生、大燕国皇帝(~757年)
     不空金剛誕生、密教開祖(~ 774年)
     2月
     張柬之
     らのクーデター
     中宗が復位、唐朝が復活
     日本
     遣新羅使帰還・・・新羅・・・倭国の敵?
    (大使=幡文通)・・・幡の文の通?
     新羅貢調使来朝・・新羅・・・倭国の敵?
    (大使=金儒吉
     副使=金今古)・・・金の今と古?
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     12月16日(神龍元年11月26日)
     武則天則天武后)死去
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 正始八年春二月朔
 西暦247年3月24日の日食・・・卑弥呼天照大神の岩戸隠れ
 ・・・???・・・
 天文律暦志に載る日食限の記述の変遷
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 宋書・景初暦
 237年
 入交限数以上者、朔則交會、望則月蝕。
 志彙編六 p.1696
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 隋書・皇極暦
 未施行(604年)
 交限以上者月食、月在[裏]者日食
 志彙編六 p.1957
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 唐書・戊寅元暦
 619年
 交限巳上、望則月食、其朔在内道者、朔則日蝕
 志彙編七 p.1986
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 唐書・麟徳暦(儀鳳暦)
 665年・・・六百六拾五=陸百陸足後?
 為入蝕限、望則月食、朔入限、月在裏者、日蝕
 志彙編七 p.2024
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 唐書・大衍暦
 728年
 望入蝕限、則月食、朔入蝕限、月在陰暦則日蝕
 志彙編七 p.2024
 (古代日食計算における陽暦法の発見)
 by http://www.wagoyomi.info/youreki.html
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 夏の第4代
 仲康の時代
 天文官の
 羲氏・・・魏史・・・委(禾女)ねる鬼(おに)の史
 と
 和氏・・・倭史・・・イの禾の女の歴史・・・イは委任された史
 が酒色に溺れ
 天文観測をさぼり
 日蝕の予報を出さず
 暦を乱し死罪になった
 ↓↑
 53年
 158年
 247年3月24日の日食・・・卑弥呼天照大神の岩戸隠れ?
 248年
 の4回の皆既日食
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 武周革命・・・武を周(まわす・まわり)
 漢字を創作
 仏教を崇敬
 官寺を
 大雲寺として保護
 龍門石窟寺院の建造
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 畜類の殺生
 魚の捕獲を禁止
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 「武韋の禍」
 705年以後
 中宗の皇后の
 韋后(イコウ)が
 武后にならって実権を握ろうとし
 710年に
 娘の
 安楽公主と謀って
 中宗を毒殺
 「武后と韋后」の実権を握って
 政治が混乱
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 712年・・・干支=壬子
        和銅五年
        712年3月9日(和銅五年一月二十八日)
        古事記元明天皇に献上
        唐
        景雲三年、太極元年、延和元年、先天元年・・・?
 中宗の兄の
 睿宗(武后に廃位)の子の
 隆基(玄宗)が
 韋后と安楽公主らを殺害し
 父の
 睿宗を復位させ
 隆基(玄宗)は
 父から譲位されて
 皇帝となった
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 高宗
 唐の第3代皇帝(在位649~683)
 太宗の第9子
 母は
 鮮卑
 拓跋氏
 長孫無忌の
 妹の
 長孫皇后=文徳皇后
 ↓↑
 本名は李治
 字は為善
 ↓↑
 第2代
 太宗の第9子
 長兄
 承乾太子が廃され
 外戚
 長孫無忌の後援で
 太子となり
 22歳で即位
 ↓↑
 則天武后
 新たな皇后とし
 則天武后の一派が以後は要職に就き
 褚遂良は左遷
 長孫無忌を失脚、自殺させた・・・
 ↓↑
 永徽律令
 律疏
 の撰定
 『五経正義』の頒行など
 法律制度の仕上げをなし
 泰山に封禅を行い
 高句麗征服を実現
 ↓↑
 33歳
 「風疾」or「風眩」・・・
 を発病
 以後
 政務一切を
 武后(則天武后)の処断にゆだねた
 ↓↑
 西突厥を大破し滅亡させ
 アラル海にいたる西域を支配下
 新羅と結んで
 高句麗百済
 を滅ぼす・・・
 ↓↑
 664年
 則天武后専制に不満を抱き
 高宗は
 彼女が道士を宮中に入れて
 呪いをしていることを理由に廃そうとしたが
 則天武后に計画が漏れ
 高宗に協力していた
 上官儀が処刑
 以後
 高宗は
 国政を
 則天武后により決裁されるようになった
 高宗と則天武后を並べて
 「二聖」と呼ぶ
 674年
 則天武后の発意で
 高宗を「天帝(天皇)」
 則天武后を「天后」
 と呼ぶように改められた
 ↓↑
 高宗の後継者
 最初の皇太子
 李忠は廃され
 次の
 李弘は謎の急死
 次の
 李賢は則天武后に廃され
 高宗崩御の翌年に自殺させられた
 この際
 李賢を何とか許そうと
 高宗は動いたが
 則天武后の意により
 李顕が皇太子になった
 ↓↑
 晩年の高宗は病気が進行
 683年崩御・享年56
 跡を
 李顕が中宗として継いだ
 ↓↑
 663年
 「白村江の戦い」で
 日本・百済連合軍に勝利
 668年
 高句麗を滅ぼす
 新羅を除く
 朝鮮半島支配下に置いた
 676年
 朝鮮半島から撤退
 ↓↑
 宗室
 ↓↑
 后妃
 王皇后
 則天武后
 蕭淑妃
 徐婕妤(唐太宗賢妃徐恵の妹)
 劉宮人
 鄭宮人
 楊宮人
 ↓↑
 韓国夫人 武順(武則天の姉)
   ・・・韓国の夫人・武に順・・・???
 ↓↑
 魏国夫人 賀蘭氏(武順の娘)
   ・・・魏(委+鬼)の夫人
          武に順の女・・・???
         女=むすめ・おんな=音名
 ↓↑
 男子
 燕王 李忠
 原悼王 李孝
 沢王 李上金
 許王 李素節
 代王 李弘(義宗孝敬皇帝)
 潞王 李賢(章懐太子)
 中宗 李顕
 睿宗 李旦
 ↓↑
 女子
 義陽公主
 高安公主
 安定公主
 太平公主
ーーーーー
 ・・・???・・・