医者・薬師(くすし)・・・やくし=訳師・・・

 2802日目・文字霊日記

 不老不死=フロウフシ=浮浪父子=不労武士=振ろう附子
 ・・・筋肉の鎧・・・肉弾の血戦・・・
 16:50
 ウェールズ(6)VS(9)南アフリカ
 17:51
 ウェールズ(16+)VS(16+3)南アフリカ
 ・・・激烈タックル・・・怪我人続出・・・
 医者が必要だ・・・

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 ↓↑
 「徐福」・・・「フロックコート(frock coat)」
        「ドクターコート(doctor coat)」
        「医療用白衣・診療用白衣」
         を着ていたか?・・・錬金術師・・・?
                   鍛冶屋・・・・?
        「アスクレーピオス(Asklēpios)」
        「アスクレピオス Asklepios」
         明日暮日比尾州
         手にする杖には
        「蛇・巳・它」が巻き付いており
        「蘇生の象徴」
         アスクレピオスの象徴は
         蛇
         遊行者の杖
         薬を呑ませる盃
         神前に捧げる贄は「雄鶏」
         妻or娘ともいわれる
         エーピオネーと連れ添う像
         娘は
         ヒュギエイア(健康、衛生)
         イーアーソー(医療)
         パナケイア(癒し)
         の三女神・・・
        宗像三女神天照大神素戔嗚尊
              誓約(うけい)で誕生
              むなかた=胸形・胸肩・宗形
              玄界灘を守る三女神
              市杵島姫命
              多紀都姫命
              多岐理姫
        道主貴(みちぬしのむち)・・・医神ではない?
 ↓↑       ↓↑
         アスクレピオス
        「ヒポクラテス」の伝説上の先祖 
         医学生
         アポロン
         アスクレピオス
         ヒュギエイア女神
         パナケイア女神
         の前で医師としての誓いを立てる
         ↓↑

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         ケイロン(Kheirōn)・・・化意論
         ケンタウロス族・・・・・・・・建太胡路諏
         医術・音楽・狩りなど諸芸に通じ
         アキレウス・イアソン
         など多くの英雄たちを養育・教育
         ヘラクレスの毒矢に射られ最期を遂げた
         ↓↑

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         ケイロン(Cheirn Kheiron)
         ↓↑・・・鶏(鷄・雞・経・景・刑)論
                鷄=奚+鳥
           ・・・隋書・随所・随処
              本紀五巻、志三十巻、列伝五十巻
             「経籍志」が名高い・・・経論
              唐の
              魏徴
              長孫無忌
              らが
              太宗の勅を奉じて勅撰
              編纂
              顔師古
              孔穎達
              らが参加
              636年(貞観十年)
          ↓↑   ↓↑    大化の改新
                    皇極天皇四年乙巳
                   (645年7月12日)
                    六月(癸未)十四日(庚戌)
                    乙巳の変蘇我蝦夷・入鹿暗殺
          ↓↑   ↓↑    大化年間(645年~650年)の改革
              魏徴によって本紀五巻
              列伝五十巻完成
              第三代
              高宗に
              代替わりした後
              656年(顕慶元年)
              ↓↑    白村江の戦い
                   天智二年八月二十七、二十八日
                   (663年10月4、5日)
 ↓↑            ↓↑     ↓↑
                   壬申の乱
                   天武天皇元年六月二十四日
                        ~七月二十三日
              ↓↑    (672年7月24日~8月21日)
              長孫無忌
              によって
              志三十巻が完成、編入
 ↓↑            ↓↑
              卷八十一 列傳
              第四十六 東夷 俀國
              阿毎王朝
              俀王
              姓 阿毎
              字 多利思北孤
              號 阿輩雞彌
              小野妹子=蘇因高・・・素因項
                   蘇我馬子蝦夷・入鹿
              聖徳太子煬帝・裴世清・鴻臚館
              厩戸皇子推古天皇
 ↓↑       ↓↑    ↓↑
         ケンタウロス(半人半馬族)
         上半身人間で下半身は馬体
         神クロノスと
         オケアノスの娘
         ピリラーの子で不死
         音楽、医術、狩猟、預言術に精通
         アスクレピオス、イアソン、アキレウス
         らを養育
         ↓↑
         ペレウスの命を助け
         テティスとの結婚に尽力
         祝いに
         トネリコの槍を贈った
         ペリオン山に住んでいたが
         ラピテス人に追われて
         ペロポネソスに移る途中
         アルカディア
         ヘラクレスと会い
         そこで争い
         ヘラクレスの毒矢を受けた
         不死身ながらその痛みに耐えかね
         その不死を
         プロメテウスに譲って死んだ
         ↓↑
         紀元前293年
         疫病が流行し
         アスクレピオス
         娘で健康の女神
        「ヒュギエイア (Hygieia)
         ラテン語
        「サルス Salus)」・・・猿主・猿子→猿女?
        「サルーテ
         杯を手に高座に座った女神像と
         祭壇に蜷局(戸愚呂・とぐろ)を巻いた蛇
         の像が信仰として移入導入・・・
        「蛇」は、アテーネー
             デーメーテール
             ヘーラー
             ヒュギエイア(サルス)の象徴聖獣
 ↓↑ ・・・医療の女神は
   「ホルス」の母親
    イシス(ギリシャ)=アセト(エジプト)
             =イシュタル(シュメール)
              イナンナ=ニン-アンナ
 ↓↑       ↓↑ ↓↑
           大國主(大穴牟遅)の母親
           「刺国若比売(サシクニワカヒメ) 」
            は
            キサガイヒメ(𧏛貝比売)
            と
            ウムギヒメ蛤貝比売
            を使って
            八十神(大国主の兄神達)によって
            大火傷をさせられ死んだ
            大國主(大穴牟遅)を蘇生させた
            ↓↑
            再度
            八十神(大国主の兄神達)は
            大木の割れ目に大国主を閉じ込め
            楔(くさび)打ち込んで殺した
            母親は神産巣日神に懇願し
            楔を引き抜いてもらい蘇生させた
 ↓↑
 徐福(生没年不詳)
 秦の方士
 斉国の琅邪郡(山東省臨沂市周辺)出身
 別名は
 「徐巿(ジョフツ)」・・・
  「巿=一+巾=前掛け・割烹着」
 ↓↑
 『史記』巻百十八
 「淮南衡山列伝」
 始皇帝の命を受け
 3,000人の童男童女
 百工(技術者)を従え
 財宝と財産
 五穀の種を持って東方に船出
 三神山には到らず
 「平原広沢(湿地)」を得て
 王となり
 秦には戻らなかった・・・
 ↓↑
 「又使
   徐福
   入海
  求神異物、還為偽辭曰
  『臣見海中大神、言曰
  「汝西皇之使邪?」
  臣答曰
  「然」
  「汝何求?」
  曰
  「願請延年益壽藥」
  神曰
  「汝秦王之禮薄、得觀而不得取」
  即
  從臣東南
  至蓬萊山
  見芝成宮闕
  有使者銅色而龍形
  光上照天
  於是臣
  再拜 問曰
  「宜何資以獻?」
  海神曰
  「以令名男子若振女與百工之事
   即得之矣」』
  秦皇帝 大說
  遣振男女三千人
  資之五穀種種百工而行。
  徐福
  得平原廣澤、止王不來」
  司馬遷「淮南衡山列伝」『史記』巻百十八。
 ↓↑
 『史記』巻六「秦始皇本紀」
 徐氏は
 始皇帝に不死の薬を献上すると持ちかけ
 援助を得
 後始皇帝が現地に巡行したところ
 実際には出港していなかった
 そのため、改めて出立を命じたものの
 その帰路で始皇帝崩御した
 「不死の薬を名目に実際には出立せず
  皇帝から金品をせしめた詐欺師」
 ・・・
 出航地
 山東省から浙江省にかけて諸説
 紀元前219年
 第1回出航
 河北省秦皇島市
 第2回
 紀元前210年
 浙江省寧波市慈渓市・・・
 途中
 韓国済州特別自治道西帰浦市
 や
 朝鮮半島
 西岸に
 立寄り
 日本に辿り着いた・・・
 ↓↑ ↓↑
 辰韓(紀元前2世紀 - 356年)
 朝鮮半島南部にあった
 三韓の一つ
 帯方郡の南
 日本海に接し
 後の
 新羅と重なる場所にあった
 境は
 南の
 弁韓と接し
 もと
 6国であったが
 後に分かれて
 12国になった
 ↓↑ ↓↑
 已柢国(己柢国)
 不斯国
 勤耆国
 弁辰彌離彌凍国
 弁辰楽奴国
 冉奚国
 軍彌国
 如湛国
 戸路国
 州鮮国(馬延国)
 斯盧国・・・・・秦韓=辰韓新羅
 優由国
 ↓↑ ↓↑
 そのうちの
 斯蘆
 が後の
 秦韓
 ↓↑・・『晋書』は
    始皇帝の労役からの逃亡秦人が
    馬韓が領地の東を割いて与え
    辰韓人とした
    言葉は秦語
   (陝西方言・長安の標準語)
    秦韓とも
    秦人は王にはなれず
    辰韓は常に
    馬韓人を主(あるじ)とし
    代々相承であった
    自立できず、移民で
    馬韓が支配していたと
    記録している・・・
 ↓↑ ↓↑
 辰韓
 新羅
 になった
 ↓↑
 辰韓
 『三国志』魏書弁辰伝
 弁韓
 とは互いに雑居し
 風俗や言語は似通っていた
 ↓↑
 馬韓
 とは言語が異なっていた
 ↓↑
 『後漢書』弁辰伝
 弁辰は
 辰韓とは城郭や衣服などは同じ
 言語と風俗は異なっていた
 ↓↑
 中国の王室の娘
 娑蘇夫人が
 辰韓に渡来し
 新羅の初代王
 赫居世居西干
 王后
 閼英夫人
 を生んだ
 ↓↑
 閼=門+於
   門+方+仒
   門+方+人+丶+丶
   ア
   アツ
   エン
   さえぎる
   ふさぐ
   さえぎる・ふさぐ・
   とどめる=遏
  「閼氏(エンシ・アツシ)」は
  「匈奴単于の妻」の称号
 ↓↑
 漢四郡
 朝鮮半島の中・西北部の
 衛氏朝鮮・・・衛氏朝鮮
       (紀元前195年?~紀元前108年)
        中国の燕に出自を持つ
        中国人亡命者
        衛満(『史記漢書』は「満」)
        3代「満→?→右渠」続いた
        右渠の息子の長(衛長降)は
       「張路」(史記年表)・・・
 を滅ぼした
 前漢
 武帝
 紀元前108年
 に設置した
 楽浪郡
 真番郡
 臨屯郡
 紀元前107年
 に設置した
 玄菟郡
 ↓↑
 真番郡の設置
 真番(シンパン)
 辰韓(シンカン)
 秦韓(シンカン)
 の「シン」という同一音から
 ↓↑
 衛氏朝鮮
 朝鮮王配下に
 「稗王」
 「太子」
 「大夫」
 「大臣」
 「相」
 「将軍」
 が合議運営
 「博士」も任命
 「相」
 「朝鮮-相」
 「尼谿-相」
 ↓↑
 合議メンバー4人組
 朝鮮相路人
 朝鮮相韓陰
 尼谿相参
 将軍王唊
 ↓↑
 路人と韓陰は「朝鮮相」
 王唊は朝鮮の将軍
 韓陰と王唊は
 王・韓の姓氏で
 中国からの亡命者
 路人も
 中国からの亡命者
 参は、1人だけ姓氏を持たず
 「朝鮮相」ではなく
 在地の根拠地の
 「尼谿の相」であり
 亡命人+現地人の連合国家・・・?
 ↓↑
 中国→朝鮮半島西岸→日本列島
 交易路沿いに、華僑商人寄港地が都市化
 紀元前334年
 燕は朝鮮半島北部を領有
 紀元前284年
 燕は自国内に郡制を設け
 上谷~遼東までを5郡
 東胡を防ぐため
 その北に東西二千里の長城を築いた
 この頃
 朝鮮は
 燕の配下に入った
 (朝鮮と真番(朝鮮半島南部を「略属」)
 中国商人の権益を保護
 秦代は秦の属領
 燕の時代に築かれた朝鮮・真番の砦は
 二つだけ残して廃され
 遼東郡の保護下
 秦末(紀元前209年)
 陳勝呉広の乱
 燕国は
 韓広
 を王として再び独立
 紀元前206年
 秦滅亡
 項羽によって
 臧荼
 が燕王に立てられ
 韓広
 は遼東王に左遷
 燕は遼河を挟んで
 東西二つの国に分裂
 臧荼は韓広を攻め
 遼東を併合し
 燕王となった
 ↓↑
 紀元前202年
 前漢高祖の時代
 燕王臧荼は反乱
 処刑され
 盧綰
 を燕王に封じた
 紀元前197年
 盧綰が漢に背いて
 匈奴に亡命
 劉建を
 燕王に封じたが
 遼東郡を含む燕の旧領を直轄化
 その際
 燕人の衛満は
 浿水(鴨緑江)を渡河
 千人余りの徒党と共に
 朝鮮に亡命
 衛満は
 朝鮮を護ると
 箕子朝鮮王の
 準王にとりいり
 朝鮮西部に亡命移民地域を造った
 衛満は
 燕・斉・趙からの亡命者を誘い
 亡命者の指導者となり
 前漢が攻めてきたと詐称し
 準王を護るという口実で
 王都に乗りこんだ
 準王は衛満に応戦したが敗北
 衛満は
 中国人(燕・斉の亡命者)
 と
 原住民の連合政権を樹立
 王険城(平壌)を首都とし
 王位に就き
 衛満朝鮮を建国
 前漢建国当時の朝鮮は
 箕子の子孫が代々
 朝鮮侯として治めてい
 後に朝鮮王を僭称
 ↓↑
 箕準の代に
 衛満の手により王権を奪われた
 箕準は南方の
 馬韓の地を攻略し
 韓王となった。
 ↓↑
 漢の遼東大守は
 皇帝の裁可を得てこの政権を承認
 衛満は
 支配地域と漢との交易を独占
 その勢力圏は
 平安北道を除く
 朝鮮半島のほぼ全域と
 中国東北地方に及んだ
 後
 三伝し
 孫の
 衛右渠
 に至る
 衛右渠は漢の意に従わず
 武帝は朝鮮を
 紀元前109年~紀元前108年
 遠征
 武帝が朝鮮に遠征したのは
 匈奴を牽制するため
 前漢衛氏朝鮮を滅ぼしたとき
 「匈奴の左臂を断った」とする・・・
 衛氏朝鮮匈奴支配下にあり
 匈奴
 「左賢王・右賢王」用語が使用されていた・・・
 漢の朝鮮侵攻で
 朝鮮相路人
 朝鮮相韓陰
 尼谿相参
 将軍王唊
 路人、韓陰、王唊は
 衛右渠を残したまま降伏
 参だけは抗戦
 翌年
 衛右渠を暗殺し、降伏
 衛右渠殺害後
 大臣らが抗戦していたが
 前漢
 すでに降伏していた
 衛右渠の子の
 衛長降
 と
 路人の子の
 最を差し向け
 大臣を殺して降伏させた
 衛氏朝鮮は滅ぼされ
 故地に
 楽浪郡
 真番郡
 臨屯郡
 玄菟郡
 の漢四郡が設置、漢の領土となった
ーーーーー
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