帯=丗+冖+巾・・・丗(30・参拾)+ワ+ハバ・・・紐育・・・ヒモで育てる

 2747日目 ・文字霊日記
 ・・・帯に短し襷に長し・・・ 
 帯=丗+冖+巾・・・丗(30・参拾)+ワ+ハバ・・・ 
  廿++冖+巾 
  巾(はば・はばへん・きんべん) 
  タイ 
  おび・belt 
  おびる 
  着物の上から腰に巻く細長い布 
  身につける 
  ひきいる・引き連れる 
 ↓↑ 
 帯広川 
 アイヌ語の 
 「オペㇾペㇾケㇷ゚(o-pere-perke-p) 
  (川尻・裂け・裂けている・もの 
   川尻が幾重にも裂けているもの)」 
 「オペリペリケプ・オベレベレフ・オベリベリ」 
 ↓↑ 
 黄道帯(コウドウタイ・Zodiac・ゾーディアック) 
 黄道の上下に9度の幅をとって空にできる帯 
 獣を象った星座を多く通ることから獣帯 
 ↓↑ 
 黒帯(black belt)・帯紐・・・組紐・紐育(NY) 
 一帯・映帯・温帯・夏帯・角帯・革帯・掛帯・冠帯・寒帯 
 滯==氵+帶・・・・・・燕 
    氵+廿+儿+冖+巾 
    滞=带 
    氵+帯 
    氵+丗+冖+巾 
    氵+卅+冖+巾 
    水・氵・氺(みず・さんずい・したみず) 
    タイ 
    とどこおる 
    物事が進まない・はかどらない 
    とどこおる・止まる・動かない 
    一箇所にとどまる 
    こる(凝)・こり固まる 
    渋滞・滞在 
 ↓↑ 

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 燕=廿+北+口+灬 
   ・・・燕(つばめ・燕・玄鳥・乙鳥・ツバクラメ・ツバクロ・barn swallow) 
      燕≠or≒蔕(へた)・・・帶(帯) 
   火・灬(ひ・ひへん・れっか・れんが) 
   エン 
   くつろぐ 
   さかもり 
   つばめ 
   安んずる・安息する 
   さかもり・酒を飲む・酒を酌み交わす。 
   つばめ・ツバメ科の鳥。渡り鳥の一種。 
   古代中国の国名・戦国時代の七雄の一 
   古代中国の地名 
   奄→匽→燕 
   春秋時代以降、燕の士大夫層に 
  「韓(から・カン)・箕(みの・キ)」を氏とする者が多・・・蓑・笊 
 ↓↑ ↓↑↓ 
  秦末期 
  燕(紀元前209年〜紀元前207年) 
  韓広が擁立されて名乗った 
  ↓↑ 
  三国時代 
  燕(236年〜238年) 
  公孫淵が魏から自立 
  ↓↑ 
  五代十国時代 
  燕(756年〜759年or763年) 
  燕 (安史の乱
  唐代に 
  平盧節度使 
  范陽節度使を兼ねた 
  安禄山 
  が 
  満州内モンゴル遊牧民の軍事力を背景に 
  安史の乱を起こして建てた 
  ↓↑ 
  五代十国時代 
  燕(911年〜914年) 
  桀燕 
  劉仁恭(&息子の劉守光)が 
  河朔三鎮の勢力を背景に建てた 

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 ↓↑ 
 「帯方郡(君+阝)=タイホウくむ=太奉訓」 
 「タイホウくむ」のドウオン異字(意字)・・・ 
 ↓↑ 
 帯方郡黄海道?=京城附近? 
     「倭国への万二千里の起点」 
     「従郡至倭」の行程の出発地点 
     漢江河口部の仁川付近・・・ 
     帯(おび)の・・・帶(廿+儿+冖+巾) 
     方(かた)の 
     ↓↑ ・・・方=亠+勹 
            ╹ +一+ノ+𠃌 
       方(ほう・ほうへん・かたへん) 
       ホウ 
       かた 
       かく 
       ただしい 
       まさに 
       かた・むき・方位・方向・方角 
        行き先・向かう場所 
       いなか・地方・ある一定の地域 
        四角・四角形・方形 
        ただしい。正直である。また、きちんとしている。 
        ならべる。ならぶ。 
        くらべる。比較する。 
        やりかた。手段。技術。 
        同じ数を掛け合わせる。二乗。自乗。 
      「まさに」と読み 
      「ちょうど今・まさしく」などの意 
      「はじめて」と読み 
      「やっと・ようやく」などの意 
       さまよう・あてもなくぶらぶらと歩きまわる 
       彷・彷徨 
       かた=他人を呼ぶ敬称 
       かた=係・担当する人 
     ↓↑ かた=ころ・夕方 朝方 
     郡(こおり) 
       ・・・君+阝=尹+口+阝 
       邑=阝=おおざと・むら・くに 
ーー↓↑ーー 

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 楽浪郡 
 中国の前漢の 
 武帝が 
 朝鮮半島の 
 北西部に設置した 
 行政機関(地方自治体) 
 楽浪郡・・・波(なみ・ハ)を楽しむ 
 の他に 
 真番郡・・・真(まさに)番(つがえる) 
 臨屯郡・・・屯(駐屯)して臨(のぞむ)、 
 玄菟郡・・・玄菟(くろウサギ・黒兎)・・・半島の地形or月の兎の影 
       玄鳥(乙鳥・燕) 
       飛燕、濡燕、川燕 黒燕、群燕、諸燕、夕燕 燕来る、初燕、夏燕 

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      「燕来る時になりぬと・・・燕=公孫氏? 
       雁がねは・・・・雁が音=雁金=雁・・・鴨?or鷹? 
       国思ひつつ・・・出雲? 
       雲隠り鳴く・・・大国主? 
       (大伴家持万葉集』)・・・? 
       雁道(がんどう・かりのみち) 
       近世以前の日本人が 
       北方に存在する信じていた 
       架空の土地の名称・・・? 
       江戸時代には 
      「韓唐(からとう)」とも書かれ 
       中国においては 
      「月氐国(げつていこく)」と同一視された 
 の「漢四郡」 
 後漢のときに追加で 
 「帯方群」・・・帶方郡(君+阝)・・・帯(帶)を垂れる方向? 
 も置かれた 
 帶(廿+儿+冖+巾)=廿(20=念・弐拾)+儿(ノ+乚)+冖+巾 
          =ノ+廿(20=念・弐拾・二足)+乚(乙)+冖+巾 
ーー↓↑ーー 
 朝鮮事情 
 衛氏朝鮮 
 紀元前195年?〜紀元前108年 
 司馬遷の『史記』 
 便宜的に 
 楽浪郡朝鮮県(平壌)の名を用いた・・・ 
 楽浪郡=朝鮮 
 朝鮮半島で「朝鮮」と称するのは 
 10世紀の高麗以降のこと・・・ 
 燕の出自 
 亡命者 
 衛満が建国 
 『史記』、『漢書』には 
 名のみ「満」と記録 
 姓を「衛」と記すのは 
 2世紀頃に書かれた 
 王符の『潜夫論』以降・・・ 
 ↓↑ 
 前漢・高祖 
 紀元前202年 
 燕王 
 臧荼が反乱し処刑され 
 盧綰が燕王に封じられたが 
 紀元前197年 
 盧綰が漢に背いて匈奴に亡命 
 劉建 
 を燕王に封じた 
 実態は遼東郡を含む燕の旧領を直轄化 
 その際、 
 燕人の 
 衛満は身なりを現地風にかえて 
 浿水(鴨緑江)を渡河 
 千人余りの徒党と朝鮮に亡命 
 衛満は、朝鮮を護ると 
 箕子朝鮮王の 
 準王にとりいり 
 朝鮮西部に植民 
 亡命中国(燕)人は数万人 
 さらに燕・斉・趙からの亡命者を誘い 
 亡命者の指導者となった 
 前漢が攻めてきたと詐称し 
 王都に乗り込み 
 準王は衛満に応戦したが 
 「勝負にならなかった(魏略)」と戦況を記録 
 衛満は 
 燕・斉の亡命者と原住民と連合し 
 王険城(平壌)を首都とし王位に就き 
 衛満朝鮮を建国 
 ↓↑ 
 『三国志・魏略・後漢書』によると 
 前漢建国当時の朝鮮は 
 箕子の子孫が代々朝鮮侯で 
 箕子(キシ)朝鮮 
 として 
 朝鮮王を僭称 
 箕準の代に 
 衛満 
 の手により王権を奪われ 
 箕準は 
 南方の・・・・「馬韓弁韓辰韓」の三国? 
 馬韓を攻略し 
 「(馬)韓王?」となった・・・「馬韓百済」になった? 
ーー↓↑ーー 
 しられたい・知られたい・・・自己顕示欲?顕示願望? 
 新羅例帯 
 しられたくない 
 新羅例拓無い 
ーー↓↑ーー 
 新羅(シラギ・シンラ・シルラ) 
 斯蘆(シロ・サロ) 
 前57年〜935年 
 古代の朝鮮半島南東部にあった国家 
 辰韓 
 (シンカン) 
 紀元前2世紀〜356年 
 朝鮮半島南部にあった三韓の一 
 帯方郡の南 
 日本海に接し 
 後の新羅と重なる地域 
 ↓↑ 
 帯方郡(タイホウ-グン) 
 ・・・「帯方」という名称は楽浪郡の属県? 
 204年〜313年の 
 109年間 
 中国漢王朝によって 
 朝鮮半島の中西部に置かれた 
 軍事・政治・経済の地方拠点 
 ↓↑ 
 楽浪郡の南半を割いた数県 
 (晋代では7県・『晋書地理志』) 
 東の濊 
 南の韓 
 南端の倭(半島南端)・・・弁韓? 
 が属す 
 後漢から魏、西晋の時代にかけ 
 郡の経営や 
 羈縻支配を通じて 
 韓・倭という 
 東夷地域へ 
 中国の文化や技術を持ち込んだ 
 ↓↑ 
 魏朝以降には 
 華北の中国文化の窓口 
 郡の長が太守であり 
 配下の官吏と軍団の在する 
 郡役所が郡治 
 帯方郡治は 
 楽浪郡治(平壌)の南方にあった・・・ソウル? 
 ↓↑ 
 楽浪郡治の所在地 
 平壌の郊外、市街地とは 
 大同江・・・大(一の人)の 
       同(おなじ)の 
       江(川水の流れ、巧み) 
 を挟んだ対岸の 
 楽浪土城(平壌市楽浪区域土城洞)にあった 
 ↓↑ 
 公孫氏 
 後漢の末 
 中平六年(189年) 
 中国東北部の 
 遼東太守となった 
 公孫度は・・・公(おおやけ)=八(捌)+ム 
        孫(まご) 
        度(たび・旅・足袋・田尾) 
        ・・・天孫降臨・・・? 
 後漢の放棄した 
 朝鮮半島へ進出 
 平壌付近から 
 漢城北方にかけてにあった 
 楽浪郡支配下に置き 
 後を継いだ嫡子 
 公孫康・・・公孫康・・・康=广+隶・・・健康 
               广+肀+氺(水) 
               亠+丿+肀+氺(水) 
               ╹+厂+肀+氺(水) 
          ・・・厂(崖)の上の╹(灯火・あるじ) 
          ・・・肀=熊手・柄杓 
 は 
 楽浪郡18城の南半 
 屯有県(黄海北道黄州)・・・駐屯の有る県 
 以南を割いて 
 帯方郡を分置 
 建安九年(204年)頃・・・ 
 南方の土着勢力 
 韓・濊族を討ち 
 「是より後、倭・韓、遂に帯方に属す」 
       ・・・倭は朝鮮半島の南部に存在していた 
 郡治=周囲の数十県(城)の 
    軍事・政治・経済を束ね 
    個々の県治よりもひときわ大きな城塞都市 
 公孫康は 
 魏の 
 曹操に恭順し 
 後漢の 
 献帝から 
 左将軍・襄平侯に任ぜられ 
 帯方郡は 
 後漢の郡とされた 
 ↓↑ 
 公孫康の死後 
 子の 
 公孫淵が幼いために 
 公孫康実弟 
 公孫恭 
 が後を継ぎ 
 献帝から禅譲を受けた 
 魏朝の 
 文帝(曹操の子・曹丕)により 
 車騎将軍・襄平侯に封じられた 
 ↓↑ 
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