太和二年(228年)・・・大和(やまと) 

 太和二年(228年)・・・大和(やまと) 
  ・・・太の和の 
     二のネン 
       年=𠂉+ヰ(wi・ゐ・井・韋) 
           韋(そむく・なめす・なめしがわ) 
           葦・偉・衛 
 228年 
 干支 : 戊申 
 神功皇后摂政二十八年・・・・・卑弥呼(?〜242年〜248年) 
                    248−228=20 
 皇紀八八八・八百八拾八・888年 
 魏 : 太和二年 
 蜀 : 建興六年 
 呉 : 黄武七年 
 高句麗 : 東川王  二年 
 新羅  : 奈解王三十三年 
 百済  : 仇首王 十五年 
 ↓↑ 
 建興六年五月 
 泣いて馬謖を斬った(揮淚斬馬謖)年 
 「涙を揮(ふる)って馬謖を斬った」  
 ↓↑ 
 公孫淵 
 魏の 
 曹叡(明帝)からの承認され 
 揚烈将軍・遼東太守に任ぜられた 
 公孫淵は 
 魏朝の仇敵である 
 呉の 
 孫権との同盟を画策 
 魏から受けた 
 大司馬・楽浪公の地位を不足とし 
 景初元年(237年) 
 反旗を翻して独立を宣言 
 遼東の襄平城で 
 燕王を自称 
 帯方郡 
 楽浪郡 
 は燕に属した 
 ↓↑ 
 景初二年(238年) 
 魏の太尉 
 司馬懿 
 の率いる四万の兵によって 
 襄平城を囲まれ、長期の兵糧攻めで 
 公孫淵とその子 
 公孫脩は滅び 
 帯方郡は 
 「後漢─魏─燕」と 
 所属に変遷があったが 
 実質的は一貫して 
 公孫氏の領有下 
 韓や倭といった 
 東夷からの朝貢は 
 公孫氏が受け取っていた・・・ 
 ↓↑ 
 卑弥呼(?〜242年〜248年) 
 238年       248−238=10 
  6月、邪馬台国の女王 
    卑弥呼が魏に使者を派遣 
 12月、明帝から「親魏倭王」の 
    金印・紫綬と銅鏡などを下賜 
   (魏志倭人伝) 
 干支 : 己未 
 神功皇后摂政三十九年 
 皇紀八九九・捌玖玖・899年 
 魏 : 景初三年 
 蜀 : 延熙二年 
 呉 : 赤烏二年 
 高句麗 : 東川王十三年 
 新羅  : 助賁王 十年 
 百済  : 古尓王 六年 
 ↓↑ 
 帯方郡は 
 魏の直轄経営 
 魏は 
 劉 
 と 
 鮮于嗣 
 をそれぞれ 
 帯方太守、楽浪太守に任じ 
 両者を密かに海路で 
 山東半島から黄海を越えて 
 朝鮮半島に派遣 
 帯方郡楽浪郡の2郡を掌握させた 
 帯方郡は 
 魏の直轄地となる 
 太守 
 劉は 
 周辺の 
 東濊・韓族の首長に 
 邑君、邑長の印綬を賜与し 
 魏との冊封関係を改めて結び直した 
 邪馬台国卑弥呼も 
 景初二年 
 (238年・『魏志倭人伝』の記述は誤りで 
  景初三年の説・・・?) 
 六月 
 帯方郡へ 
 朝貢使 
 難升米・・・難(むづかしい) 
 ↓↑     升(はかる・ます)⇔开の変形? 
       米(こめ)=丷+十+八 
         ベイ・マイ・メ 
         こめ・メートル 
         よね・稲の実 
         脱穀した穀物の実 
         メートル・長さの単位 
         亜米利加(アメリカ)の略 
 ↓↑      アメリカ大陸 
 次使 
 都市牛利・・都(みやこ)=者+阝 
       市(いち)=亠+巾 
       牛(うし)=𠂉+十 
       利(とし)=禾+刂 
            刀・刂(かたな・りっとう) 
            リ 
            きく・するどい・よい・とし 
            よく切れる・都合がよい 
            役立つ 
            もうける 
            利息・利益 
            かしこい・さとい 
            役に立つ 
            きく・ものを言う・話をする 
 ↓↑ 
 を派遣した 
 太守は 
 劉夏で 
 郡の官吏を付けて 
 後漢の都 
 洛陽まで 
 難升米 
 の一行を送らせた 
 ↓↑ 
 正始元年(240年) 
 新太守 
 弓遵は 
 魏の詔書・金印紫綬を 
 配下の 
 梯儁 
 に持たせ 
 卑弥呼 
 のもとへ送った 
 ↓↑ 
 弓遵 
 正始六年(245年) 
 嶺東へ遠征し 
 東濊を討った後 
 帯方郡が所管していた 
 辰韓八国を 
 楽浪郡編入することになり 
 その決定を現地に伝えた際 
 通訳が誤訳をし 
 韓族を激怒させ 
 郡内の韓族が 
 帯方郡の 
 崎離営を襲った 
 弓遵と 
 楽浪太守の 
 劉茂 
 が討ち 
 魏軍は韓族を滅亡 
 弓遵も戦死 
 ↓↑ 
 正始八年(247年) 
 弓遵 
 から引き継いだ 
 太守 
 王頎は 
 倭の使者から 
 邪馬台国 
 と 
 狗奴国 
 との交戦の報告を受け 
 自ら上洛して官の決裁を仰ぐが 
 魏朝から 
 邪馬台国へ援軍が送られることはなく 
 魏の 
 少帝の 
 詔書 
 黄幢 
 を携えた 
 塞曹掾史 
 (外交官、軍使、軍司令副官など諸説) 
 の 
 張政が派遣された 
 ↓↑ 
 帯方郡の滅亡 
 泰始元年(265年)・・・泰=三+人+氺(水) 
𡗗+氺(水) 
             始=女+台 
 魏の・・・・・・・・・・魏=委+鬼 
               禾+女+鬼 
 司馬炎(懿の孫、後の晋の武帝) 
 が魏の 
 曹奐(元帝)から禅譲を受け 
 晋朝(西晋)を興す 
 永康元年(300年) 
 八王の乱で混迷状態 
 帯方郡に属する県は 
 帯方・列口・南新・長岑・提奚・含資・海冥 
 七県(『晋書地理志』) 
 玄菟郡の遼東移動 
 前107年 
 衛氏朝鮮の跡地に 
 楽浪郡と共に置かれた 
 玄菟郡が 
 前75年 
 朝鮮半島から遼東(遼河東部地域)へと移動 
 111年 
 夫余が 
 玄菟郡、遼東郡、高句麗などを通り越し 
 楽浪郡を攻撃・・・? 
 122年 
 馬韓帯方郡楽浪郡、遼東郡を通り越し 
 高句麗主導で 
 濊貊と共に 
 遼東の 
 玄菟郡を攻撃したが 
 夫余によって撃退された・・・? 
 ↓↑ 
 建興元年(313年) 
 遼東へ進出した 
 高句麗が南下し 
 楽浪郡を占領 
 朝鮮半島南半に孤立した 
 帯方郡は 
 晋の手を離れ情報も途絶 
 帯方郡は 
 楽浪郡南部に残された 
 漢人の政権や都市は 
 東晋を奉じて5世紀初頭までの存続 
 5世紀前半 
 百済によって征服 
 5世紀後半 
 高句麗が 
 百済を駆逐して支配下へ置いた 
 ↓↑ 
 帯方郡の滅亡後 
 帯方の名は残ってい 
 広開土王碑文の 
 404年に 
 倭から 
 百済征伐の形で北侵 
 帯方界(旧帯方郡の境界) 
 に進入して 
 高句麗と戦った・・・ 
 ↓↑ 
 帯方郡治の所在地 
 平壌の郊外 
 市街地とは 
 大同江を挟んだ対岸にある 
 楽浪土城(平壌市楽浪区域土城洞)にあった 
 帯方郡治の比定地 
 現代の38度線を挟んで諸説・・・? 
 ↓↑  
 ソウル説と広州説 
 広州は最初の百済の都 
 3世紀の 
 馬韓の「伯済国」は広州にあった・・・ 
 初期には 
 広州にあった帯方郡が 
 ソウルに遷り 
 その跡地に百済が興った・・・ 
 ↓↑ 
 京畿道ソウル説 
 ソウルに帯方郡治があった・・・ 
 『漢書地理志』に 
 前漢時代の 
 楽浪郡25県の1つとして 
 帯方県が記され 
 「帯水、西して帯方に至り海に入る」 
 この「帯水」とは 
 「大同江=列水」ではなく 
 中部を西流する大河の 
 漢江で 
 その河口部のソウルこそが 
 帯方郡治であった・・・「帯水=漢江」? 
 ↓↑ 
 京畿道広州説 
 ソウルの東南40kmの 
 広州を帯方郡治に比定・・・ 
 漢江を河口から遡ると 
 ソウルを過ぎて北上する 
 北漢江と南東に向かう 
 南漢江に分かれる 
 「帯水、西して帯方に至り海に入る」 
 の 
 「帯水」を「北漢江」ではなく 
 「南漢江」 
 帯方郡治は広州・・・ 
 ↓↑ 
 鳳山郡説と安岳郡説 
 ↓↑ 
 黄海北道鳳山郡説 
 平壌から南へ50km 
 黄海北道鳳山郡沙里院にある 
 唐土城 
 を帯方郡治に比定する説 
 楽浪郡址と同時代の 
 瓦・塼(煉瓦)・銭などが出土 
 付近の古墳群からは 
 「帯方太守 張撫夷塼」 
 と刻まれた塼槨墓が発見 
 ↓↑ 
 黄海南道安岳郡説 
 安岳郡に比定する説 
 「元康五年(295)」銘塼のある下雲洞古墳 
 「太康九年(288年)」銘塼出土の柳雲里北洞 
 楽浪墓制と同じく 
 漢人の塼槨墓 
 大同江河口の入江を扼する位置にあり 
 中国遼東半島山東半島のどちらにも近い 
 ↓↑ 
 帯方郡の疆域 
 鳳山郡・安岳郡・信川郡など 
 載寧江流域の一帯には 
 他国からの流入者・亡命者などを含めた 
 中国人社会が形成されていた・・・ 
 ↓↑ 
 北帯方 
 前漢が 
 楽浪郡・・・場所は遼東或いは遼西 
 ↓↑     遼東、遼西とは 
       遼東半島ではなく 
       遼河の東部或いは西部地域・・・? 
      「樂浪遂城縣有碣石山,長城所起」 
      「西連諸國至于安息,東過碣石以玄菟 
       樂浪為郡 
       卻匈奴萬里,更起營塞,制南海以為八郡」 
      「樂浪郡武帝置。雒陽東北五千里 
       …郭璞注山海經曰 
        列,水名。列水在遼東」 
      「浪郡,故朝鮮國也,在遼東」 
      「長岑縣,屬樂浪郡,其地在遼東」 
      「安帝永初五年(111年) 
       夫餘王始將歩騎七八千人寇鈔樂浪 
       殺傷吏民,後復歸附」 
      「楽浪郡の場所=遼東」 
      「乙支文徳・・・? 
       6世紀後半〜7世紀初頭 
       石多(ソクダ)山の者・・・石多? 
       高句麗の将軍。大臣 
       隋の 
       宇文述 
       ・・・宇(そら)文(ふみ)述(のべる) 
       于仲文 
       ・・・于(まげる)仲(なか)文(ふみ) 
       は煬帝より 
       嬰陽王か 
       乙支文徳将軍の 
       捕縛を命じられていたが 
       隋の第二次高句麗遠征(612年)で 
       隋軍に追い討ちをかけ勝利」 
       元史(1369年) 
      「咸平府,古朝鮮地,箕子所封 
 ↓↑     漢屬樂浪郡,後高麗侵有其地」 
 と同時に 
 設置(紀元前108年)した郡 
 郡治は今の全羅南道羅州市にあった 
 漢四郡(楽浪・玄菟・臨屯・真番)は 
 漢五郡だった 
 紀元前八十二年?) 
 独立国を自称(帯方国)し 
 三十七年 
 高句麗に滅ぼされた・・・ 
 ↓↑ 
 南帯方 
 魏(220年〜265年) 
 全羅北道南原市に郡治が置かれた・・・ 
 魏が遼東の公孫氏を滅ぼし 
 楽浪郡帯方郡を接収した 
 238年以降のある時 
 魏は一時的にせよ 
 帯方郡を大きく南へ移動させた 
 魏が馬韓の反乱を鎮圧した 
 245/246年の出来事か・・・ 
 ↓↑ 

 帯方郡=遼東 
 後漢書高句麗伝 
 「郡國志西安平、帶方縣 並屬 遼東郡」 
 魏志高句麗伝 
 「順(帝)、桓(帝)之間,復犯 遼東 
  寇 新安、居鄉 
  又 攻 西安平 于道上 殺 帶方令 
  略得 樂浪太守妻子」 
 晋書地理誌 
 「帶方郡 公孫度置。列口, 長岑, 含資」 
 長岑=遼東 
 含資県=遼西県属 
 ↓↑ 
 313年以降 
 平州 
 楽浪郡玄菟郡、遼東郡、帯方郡、昌黎郡 
 から構成・・・ 
 ↓↑ 
 「辰韓人などの亡命中国人(秦人)の遺構」 
 ↓↑ 
 韓は帯方郡の南、東西は海で尽き、南は倭と接する 
 楽浪郡の使いは大船に乗って 
 辰韓に入り、千人の仲間を奪還した 
 「万余の兵を船に乗せて攻撃する」 
 と辰韓を威嚇した 
 鉄が産出され 
 市場で中国が銭を用いるように鉄を用いる 
 韓、濊、倭や 
 楽浪、帯方にも 
 鉄を供給 
 ↓↑ 
 山海経 
 海内北経 
 「蓋国は・・・蓋=亠(トウ・ズ)=音の漢字の略字 
        蓋=艹+盍 
          艹+去+皿 
          艹+土(十一)+厶+皿・・・2月11日 
          艸・艹(くさ・くさかんむり・そうこう) 
          ガイ・コウ 
          ふた 
          おおい(覆い・蔽い・被い) 
          おおう 
          かさ 
          けだし 
          おおいかくす・かぶせる 
          とま 
          地をおおう天・空 
          「けだし=思うに・多分」 
          とま(苫) 
          むしろ(筵・莚・蓆) 
          かや(萱) 
          がま(蒲) 
          などを編んでつくったおおい(覆い) 
         「なんぞ・・・ざる」と読み 
 ↓↑      「どうして・・・しないのか」の意 
  鉅燕の南 
  倭の北にあり 
  倭は燕に属す」 
 陸続き・・・ 
 燕は河北省北部(北京周辺)の国 
 蓋国=倭は燕に属す 
    遼東半島or朝鮮半島北部 
    漢書地理誌に 
   「樂浪海中有倭人」 
 楽浪海=遼東湾西朝鮮湾黄海・・・ 
     魏志韓伝 
    「南は倭と接する」 
    「瀆盧国は倭と接する(與倭接界)」 
 倭が朝鮮半島にあった・・・