チョウのゴンのカ・NO・Ⅱ・貳・貮・弐・仁・邇・似

 2844日目・文字霊日記
 チョウのゴンのカ・・・NO・Ⅱ・貳・貮・弐・仁・邇・似
 ↓↑
 長恨歌(チョウゴンカ)・・・NO-「貳・貮・弐・仁・邇」・・・似
 ↓↑
 遣唐使=ケントウシ「=検討史
           =見当詞=健闘士=建陶氏=賢答詩」
     の時代
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 唐の詩人
 白居易・・・白に居るを易(かえる)
 の
 長・編・漢・詩
 (オサをアム、アヤ=彪、カラ=加羅のウタ)?
 ↓↑
 ・・・「超言化・趙言化・張言化・弔言化」・・・
 「聴言化・鳥吟化・蔦言化」・・・
 「長(おさ)の言の化」・・・
 「譯語田(おさだ)の化」・・・
  ↓↑ ↓↑ ↓↑
    田=囗(くに・エ・イ)+十(乂・メ・乄)
    ↓↑ 囗+乂
      國・国・圀・邦・州・六合
     =狩場・刈刃・苅羽
      デン
      た
      かり(狩り・猟り・刈り・苅り・薙り)
      乂=かりる=紀(記紀
  ↓↑   ↓↑ ↓↑
        權(権力・実権)
        輕(軽戦車・軽重・駆る)=軽・珂瑠
  ↓↑   ↓↑ ↓↑
        剗=戔+刂
          通仮字「戔」
          異体字「刬・𠠮・𣂧・剷・鏟」
           けずる(削る)
          たいら(平良・多比良)にする
          サン・セン
          剗の海=剗海(せのうみ)
          9世紀半ばまで
          富士山北麓にあった湖
          貞観六年(864年)
          大噴火で
          西湖、精進湖に分断
          紀元前3000年以前には
          古剗の海(こせのうみ)
          が存在した
  ↓↑    ↓↑
       藉=艹+耒+昔
  ↓↑    ↓↑
       慰藉・温藉・藁藉・枕藉
       狼藉・藉口・藉田・藉藉
       倚藉
       慰藉料
       狼藉者
       狼藉日
  ↓↑    ↓↑ ↓↑
       大禍日(たいかにち)
       狼藉日(ろうじゃくにち)
       滅門日(めつもんにち)
  ↓↑    ↓↑ ↓↑
       刈田狼藉・落花狼
       乱暴狼藉・杯盤狼藉
      ↓↑
      籍=竹+耒+昔・・・書籍・戸籍  
      叚(假・仮)
      暇(ひま)・暇人
      遐=とおい=遠
      瘕(きず)
  ↓↑   ↓↑
      瑕疵(カシ)の璧・・・癖(くせ)・避ける
      和氏之璧=楚の人
           卞和が発見した
           宝石⇔完璧
      倭氏の壁=埼玉・採掘の璧・翡翠
           卞(亠+ト・丶+下
            亠=音・ト=卜占  
             ベン・ヘン・ハン
             布でつくった冠)
           (カシのヘキ
            かしのたま)
  ↓↑   ↓↑                  
      霞(かすむ)・霞が関
  ↓↑   ↓↑
      借(イ+昔)・借財・借金・貸借
  ↓↑     
  田=かる
  (狩る・猟る・刈る・苅る・薙る)
        ・・・「草彅・草薙・叢雲」の剣
            かる⇔蝦瑠・珂瑠
   た・たんぼ・たはた・耕作地の総称
   狩りをする・猟りする
   たがやす・耕作
        ・・・交錯・工作・公作・交作・後索
   何かを「産出する場所」の比喩
       狩場・田圃・田畑
   ↓↑
  太田種子(おおたたねこ)
  大 田田根子(日本書紀
 (おほたたねこ)
  意富多多泥古命(古事記
  大直禰子命(大神神社
  大物主神
  七世孫・・・50×7=350(年後?)
  ↓↑
  三輪(みわ)氏
  大三輪氏
  大神氏
  鴨君(賀茂朝臣氏)の祖神
  茅渟県(ちぬのあがた)
  陶邑(すえのむら)・・・陶器・淘汰
  和泉国
  大鳥郡
  陶器荘(堺市東南部の陶器山~西方付近)
  ↓↑
  河内国
  美努村(みのむら)
  若江郡
  御野(現・八尾市上之町南)
  出身
  ↓↑
  陶荒田神社(堺市中区)付近
  神門臣の
  「美気姫」を妻とし
  子の
  「大御気持命」から
  三輪氏(神氏、大三輪氏、大神氏)
  鴨氏(賀茂朝臣氏)
  神人部氏
  神部氏
  などの氏族を輩出
  大神神社の摂社
  大直禰子神社
  等に祀られている
ー↓↑--↓↑--
 阿倍 安麻呂・・・太安万侶・太安萬侶?
 飛鳥時代奈良時代
 生誕 不明
 死没 不明
 別名 風流侍従
 官位 従四位下侍従
 主君 文武天皇元明天皇元正天皇聖武天皇
 氏族 阿倍氏
 父  阿倍 比羅夫・・・比(くら)べる
             羅(鳥あみ)の
             夫(おっと)
 母  不詳
 兄弟 宿奈麻呂・・・鮮名真留?
    引田広目・・・引伝綱目(項目)?
    安麻呂・・・・案磨賂?
    船守・・・・・符名模理?
 妻  安曇外命婦
 子  豊継・・・・・「豊後+豊前=豊国」を継ぐ?
    虫麻呂・・・高橋「虫麻呂」?
 ↓↑
 和気 清麻呂
 磐梨別-乎麻呂(いわなしわけ-おまろ)
       ・・・般の石の利の木を別ける
          石の搬送に利する木を分別?
          別=わけ=和気=訳=分
               和紀・倭記
     or
     平麻呂(ひらまろ・たいらまろ)の子
 生誕 天平五年(733年)
 死没 延暦十八年二月二十一日(799年4月4日)
 改名 穢麻呂(処罰に伴う改名)
     別部-穢麻呂(わけべ の きたなまろ)  
 別名 濂麻呂・・・「清廉潔白」の麻呂?
 ↓↑   ↓↑     ↓↑
           傲来国
           花果山「水濂洞」
           孫悟空=石猿=石から誕生
           美猴王(ビコウオウ)
               備考於得(王=あう=合)?
           筋斗雲・如意棒
           弼馬温(ヒッパオン⇔比津葉音)?
           斉天大聖(セイテンタイセイ)
                所為典 対 生?
           蟠桃園(バントウヱン)
               板東  延?
           西王母(セイオウボ・西欧簿?)
           観世音菩薩(観与音簿冊?)
           仙桃(セントウ・撰問?)
           二郎真君(ジロウシンクン・字朗新訓?)
          孫悟空 vs二郎真君
             変身
           「雀 ⇔ 鷹」
           「鷲 ⇔ 鷹」
           「魚 ⇔ 鵜(鸕)」
           太上老君(タイジョウロウクン)
                他意状  朗 訓?
           金剛輪(コンゴウワ・混合和?)
           八卦炉(ㇵッケロ・葉通懸賂?)
           釈迦(シャカ・釈化)
           七十二変化=漆拾弐変化(編化・返歌)
           太宗皇帝(碓相項綴・他意叢更訂)
           三蔵法師(纂造奉仕・簒造奉仕)
                讃贈褒詞・・・???
 ↓↑   ↓↑
 神号 護王大明神
 墓所 護王神社
 官位 従三位民部卿、贈正一位
 主君 称徳天皇光仁天皇桓武天皇
 氏族 磐梨別氏(磐梨別公)
    →藤野(輔治能)氏(藤野真人)
    →和気氏(和気宿禰、和気朝臣
 父  磐梨別乎麻呂(または平麻呂)
 姉弟 広虫法均尼)
    清麻呂
 妻 和気嗣子
 子 広世(長男)
    真綱(五男)
    仲世(六男)
    藤原葛野麻呂
  護王神社和気神社・御祖神社などで
 「狛犬」の代わりに
 「狛猪」が置かれている
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 ↓↑
 阿倍 仲麻呂(仲麿)
 文武天皇二年
 698年
 ~
 宝亀元年
 770年1月・・・七百七拾=漆(うるし・シツ)
             桃(もも・トウ)
             櫛(くし・シツ)
             拾(ひろう・ジュウ)・・・?
 遣唐留学生
 姓は朝臣
 筑紫大宰帥
 ↓↑
 阿倍比羅夫の孫
 ↓↑
 中務大輔
 阿倍船守の長男
 ↓↑
 弟  阿倍帯麻呂・・・帯の麻の呂
 ↓↑
 唐名 朝衡=チョウコウ=晁衡
       長  考
 ↓↑
 霊亀三年・養老元年
 717年
 第九次遣唐使
 多 治比-県守
   ・・・多く字を比べ-懸けて守る?
 に同行し
 吉備真備・・・吉を備(そなえる)真の備
 玄昉・・・・・玄(くろい・ゲン)
        昉(始まる・物事の始まり
          明るくなる
          よあけ
          太陽が輝き始める)
 などと
 唐の長安に留学
 ↓↑
 太学で・・・太(ふとい・おほの・タイ⇔他意・碓)
       を
       学(まなぶ・ガク⇔臥句・顎)
 科挙・・・科(とが)を
      挙(あげる・かかげる・登用⇔盗用)?
 に合格
 玄宗皇帝
 に仕え
 神亀二年
 725年
 洛陽の
 司経局
 校書・・・文書を校合(キョウゴウ)すること
      校正(コウセイ)
     「日本関係の文書の改竄」が出来る
      ポジション・・・???
      芸者の異名
      妓女の
      薛濤 (セットウ) の文才を認め
      校書郎に任じた由来
 任官
 ↓↑
 神亀五年
 728年
 左拾遺
 ↓↑
 天平三年
 731年
 左補闕・・・従七品上
       殿中侍御史=監察・弾劾の官
             宮殿内の儀礼を監督する者
             群臣が集まる祭祀や朝会の際に
             2人が群臣の儀礼を監視し
             違反があれば弾劾した
       左補闕=殿中侍御史の補欠官
 と官職を重ね
 唐の朝廷で
 李白
 王維
 儲光羲
 ら
 唐詩人と親交
 『全唐詩』に唐詩人の作品が現存
 ↓↑
 天平五年
 733年
 「多治比広成(たじひ の ひろなり)」
     ・・・太の字を比べ構成?
 の
 第十次遣唐使が来唐し
 長安遣唐使らの諸事を補佐
 唐での官途に就き
 帰国しなかった
 ↓↑
 天平六年
 734年
 遣唐使一行帰国
 第一船のみが
 種子島に漂着し・・・種子の島
 真備
 と
 玄昉
 は助かった
 残りの三船は難破
 副使
 「中臣名代(なかとみ の なしろ)」の
 第二船は
 福建方面に漂着
 長安に戻った
 名代一行を再度帰国させるが
 崑崙国(チャンパ王国)に漂着
 遣唐使判官
 平群広成(へぐり の ひろなり)
 一行四人が長安に戻った
 広成らは
 仲麻呂の奔走で
 渤海(ボッカイ・満州
 経由で日本に帰国
 ↓↑
 天平五年
 734年
 儀王友(玄宗の子、儀王(710?-765)の
     陪従を司る「儀王の友」の役職)
 に昇進
 ↓↑
 天平勝宝四年
 752年
 衛尉少卿(エイイショウケイ・兵部輔)
 に昇進
 第十二次遣唐使
 藤原清河
 率いる一行が来唐
 遣唐使の応対
 在唐三十五年になり
 帰国許可を
 玄宗
 に申し出るが却下
 ↓↑
 天平勝宝四年
 752年
 仲麻呂
 清河らとともに
 秘書監・・・「皇帝直属図書館長」
 衛尉卿・・・「兵部輔」
 を授けられた上で
 帰国を図った
 王維は
 「秘書
  晁監(皇帝直属の
     秘書監の
     晁衡)
  の日本国へ還るを送る」
 の別離の詩を詠んだ
 ↓↑
 753年
 阿倍仲麻呂
 の乗った船団(計四船)の
 第二船に
 「鑑真(687年~763年)」
     ・・・鑑(かがみ)が真
 が乗船
 六度目に渡日を果たした
 ↓↑
 藤原清河(藤原房前の四男
      藤原不比等の孫)
 752年
 第十次遣唐大使
 753年
 正月の朝賀の儀式で
 「新羅」・・・・・・新羅VS日本
 と席次を争った
 帰路
 阿倍仲麻呂とともに
 ベトナムまで漂流
 ↓↑
 755年
 長安に戻った
 ↓↑
 759年
 日本は
 藤原清河
 を迎える為
 「高元度」・・・「高の元の度」
 を大使とする
 特別な遣唐使を派遣
  ↓↑
 「安史の乱(755年~763年)」
 で危険なため
 唐朝は
 藤原清河
 の帰国を許さず
 日本は
 「藤原清河」を
 在唐大使のまま任官し
 唐朝では
 天子の直属
 「文庫長」・・・文庫長
 「秘書監」
 に昇進
 ↓↑
 776年
 日本出発の遣唐使に託して
 「藤原清河」
 の帰朝を命じ
 宝亀八年
 777年・・・七七七・漆(死地・黄泉)桃=伊邪那岐
           櫛拾七=弟橘媛
    ・・・乙橘姫・弟橘媛(おとたちばなひめ)
       日本武尊(倭建命)の妃
       弟橘媛日本書紀
       弟橘比売命古事記
 ↓↑
 「小野石根(おの の いわね)」=大宰大弐・小野老の子
 を大使代行とする遣唐使が出発
 長安に入京した
 ↓↑
 小野石根(おの の いわね)
 ↓↑
 宝亀七年
 776年
 大伴益立
 に替わって
 備中守
 大神末足
 と共に遣唐副使に任ぜられる
 宝亀八年正月
 777年
 播磨守に任ぜられ
 二月
 春日山の麓で遣唐事業の成功を祈願
 四月
 遣唐大使
 佐伯今毛人が
 光仁天皇に出発の暇乞いをしたが
 俄に発病
 出発できなくなり
 小野石根
 大使の職務を代行
 佐伯今毛人の
 代わりの大使は立てられず
 石根が
 副使のまま
 大使の職務を代行
 六月二十四日
 第十六次遣唐使一行出帆
 七月三日
 揚州海陵県(江蘇省泰州市)に到着
 長安へ向かう
 「安史の乱」による
 駅舎の荒廃を理由に
 入京人数を43名に制限され
 宝亀九年正月
 778年
 長安に到着
 三月
 皇帝
 代宗への拝謁
 九月
 石根
 や
 唐の送使
 趙宝英
 が乗った第一船は
 九月五日に出航
 八日
 暴風で高波を受け
 船は中央から舳と艫に分断し沈没
 趙宝英
 らと共に
 小野石根
 は水死(溺死)
 宝亀十年
 779年
 水難を悼んで
 従四位下贈位
 ↓↑
 藤 原    喜娘
(ふじわら の きじょう、生没年不詳)
 ↓↑
 宝亀九年
 778年
 清河死去
 「喜娘(キジョウ)」
 は遣唐使に同行し
 大使代行
 「小野石根」・・・石の根
 唐使
 「趙宝英」・・・・趙の宝の英
 判官
 「大伴継人」・・・継の人
 とともに
 第一船に乗り
 日本を目指したが
 石根・趙宝英らは遭難
 「喜娘」は
 大伴継人
 らとともに
 舳に乗り
 肥前国
 天草郡
 西仲嶋(鹿児島県出水郡長島町)
 に漂着
 ↓↑
 「喜娘」の来日で
 藤原清河の
 唐での客死が確認
 ↓↑
 益久島(屋久島)に向け
 四隻出帆帰国
 第一船の
 仲麻呂
 清河
 が暴風に遭って南方へ漂流
 彼の落命の噂で
 李白
 「明月不歸沈碧海」
 の七言絶句
 「哭晁卿衡」
 を詠んだ
 ↓↑ 
 仲麻呂が乗船していた第一船は
 阿児奈波島(沖縄本島)に到着後
 奄美に向う途中で暴風雨に遭遇
 安南に漂着
 乗船者の一部は同地で襲撃され死亡
 清河・仲麻呂
 らは
 驩州(ベトナムゲアン省南部・ハティン省
 に逃れた
 ↓↑
 天平勝宝七年
 755年6月
 長安に戻ったが
 755年12月16日
 ~
 763年2月17日
 「安史の乱」勃発
 ↓↑
 清河の身を案じた日本の朝廷から
 渤海経由で迎えが到来
 唐朝は行路が危険とし
 清河らの帰国を認めず
 ↓↑
 仲麻呂
 唐で再び官途に就き
 左散騎常侍(皇帝直属の諌官で従三品)
 に昇進
 ↓↑
 天平宝字四年
 760年
 鎮南都護・安南節度使(正三品)
 を務めた
 ↓↑
 天平宝字五年
 761年
 ~
 神護景雲元年
 767年
 まで六年間
 ハノイ
 安南都護府に在任
 天平神護二年
 766年
 安南節度使
 ↓↑
 玄宗→粛宗→代宗
 に歴仕し
 ↓↑
 宝亀元年
 770年1月
 七十三歳で死没
 ↓↑
 代宗は
 「潞州大都督」
 の官名を贈った
 ↓↑
 孝謙天皇称徳天皇(ショウトクてんのう
      稱德天皇
      阿部皇女
      和風諡号 高野姫天皇
      諱    阿倍
      別称   宝字称徳孝謙皇帝
           高野天皇
           倭根子天皇
 718年
 養老二年
 ~
 770年8月28日・・・770年1月=阿部仲麻呂死没
 神護景雲4年8月4日
 ↓↑
 第四十六代天皇
 (在位 749 年8月19日
     天平勝宝元年七月二日
     ~
     758年9月7日
     天平宝字二年八月一日
 第四十八代天皇
 (在位 764年11月6日
     天平宝字八年十月九日
     770年8月28日
     神護景雲四年八月四日
 ↓↑
 死去後
 彼の家族に日本国から
 絹と綿が贈られた・・・
 ↓↑
 『続拾遺和歌集』の一首は
 『万葉集』に採られている
 「阿部虫麻呂」
 の作品を誤って
 「仲麻呂」の歌として採録・・・
 ↓↑
 安史の乱安禄山の乱
 755年12月16日~763年2月17日
 (7年2ヶ月1日間)
 唐王朝
 玄宗皇帝(六代目皇帝
      685年~762年
      在位712年~756年)
 に対する
 節度使・・・藩鎮
 ↓↑    唐~北宋
       までの地方組織
       節度使
       観察使
       などを頂点とし
       地方の軍と財政を統括
       節度使そのものを指す・・・
       駐屯軍の将軍と
       その地方の財政官を兼ね
       任地の税収を
       軍の糧秣と
       兵士の雇用に使う制度
       異民族対策として
       西北方面を中心に
       10の節度使が設けられた
       駐屯する兵士
       徴兵制の
       府兵制ではなく
       募兵制である
       長征-健児制・・・健児⇔建児
       辺境で屯田
       国家から給料として
       絹と銅銭を支給
 ↓↑
 「安禄山」・・・安録纂(簒)
        太安万侶古事記
 と
 「史思明」・・・史(文人不比等
         思(思想・憶・想)
         明(民・旻・名・海布意)
 の反乱
 ↓↑
 806年(元和元年)
 白居易 三十五歳
 盩厔県(陝西省周至県)尉
 の時
 の作
 ↓↑
 長恨歌 白居易

 皇重色思傾国
 御宇多年求不得
 楊家有女初長成 
 養在深閨人未識
 天生麗質難自棄 
 一朝選在君王側
 迴眸一笑百媚生 眸=目+牟=ひとみ・ボウ・ム
              眼球の黒い部分
 六宮粉黛無顔色
 春寒賜浴華清池
 温泉水滑洗凝脂
 侍児扶起嬌無力
 始是新承恩沢時
 雲鬢花顔金歩揺
 芙蓉帳暖度春宵
 春宵苦短日高起
 従此君王不早朝

 承歓侍宴無閑暇
 春従春遊夜専夜
 後宮佳麗三千人
 三千寵愛在一身
 金屋粧成嬌侍夜
 玉楼宴罷酔和春
 姉妹弟兄皆列土
 可憐光彩生門戸

 遂令天下父母心
 不重生男重生女 音名を倦み重ね
         倦厭・倦怠・倦労・疲倦
 驪宮高処入青雲
 仙楽風飄処処聞
 緩歌慢舞凝糸竹
 尽日君王看不足 筑紫の日君、王看、不足
 漁陽鞞鼓動地来
 驚破霓裳羽衣曲

 九重城闕煙塵生
 千乗万騎西南行
 翠華揺揺行復止
 西出都門百余里
 六軍不発無奈何
 宛転蛾眉馬前死
 花鈿委地無人収 葉名は金の田、委地、無人、収
 翠翹金雀玉搔頭

 君王掩面救不得 訓負う、面をおおい隠す
 迴看血涙相和流
 黄埃散漫風蕭索
 雲桟縈紆登剣閣
 峨眉山下少人行
 旌旗無光日色薄
 蜀江水碧蜀山青
 聖主朝朝暮暮情

 行宮見月傷心色
 夜雨聞鈴腸断声
 天旋日転迴竜馭
 到此躊躇不能
 馬嵬坡下泥土中
 不見玉顔空死処
 君臣相顧尽霑衣 霑=雨+沾=こぼす=零す・溢す
 東望都門信馬帰

 帰来池苑皆依旧
 太液芙蓉未央柳 太液=タイエキ=碓釋・他意譯
 芙蓉如面柳如眉
 対此如何不涙垂
 春風桃李花開夜
 秋雨梧桐葉落時
 西宮南苑多秋草
 宮葉満階紅不掃

 梨園弟子白髪新
 椒房阿監青娥老
 夕殿蛍飛思悄然
 孤灯挑尽未成眠
 遅遅鐘鼓初長夜
 耿耿星河欲曙天
 鴛鴦瓦冷霜華重
 翡翠衾寒誰与共

 悠悠生死別経年
 魂魄不曾来入夢
 臨邛道士鴻都客
 能以精誠致魂魄
 為感君王展転思
 遂教方士殷勤覓
 排空馭気奔如電
 昇天入地求之遍

 上窮碧落下黄泉
 両処茫茫皆不見
 忽聞海上有仙山
 山在虚無縹緲間
 楼閣玲瓏五雲起
 其中綽約多仙子
 中有一人字太真 中に有る一人、字は太の真
 雪膚花貌参差是

 金闕西廂叩玉扃
 転教小玉報双成
 聞道漢家天子使
 九華帳裏夢魂驚
 攬衣推枕起徘徊
 珠箔銀屛邐迤開
 雲鬢半偏新睡覚
 花冠不整下堂来

 風吹仙袂飄颻挙
 猶似霓裳羽衣舞 猶は霓(にじ)に似る、裳羽、衣舞
         猶太はアマの臼の人に似る
                    条得、意分
 玉容寂寞涙闌干
 梨花一枝春帯雨
 含情凝睇謝君王 睇=目+弟=横目・盗み目
 一別音容両渺茫 一別の音、容両渺(氵+ 眇・眇=目を細める)茫
 昭陽殿裏恩愛絶
 蓬萊宮中日月長

 迴頭下望人寰処 寰=円を描いた領域・王宮
 不見長安見塵霧
 唯将旧物表深情
 鈿合金釵寄将去
 釵留一股合一扇
 釵擘黄金合分鈿
 但令心似金鈿堅 但、令心、似金鈿堅
 天上人間会相見

 臨別殷勤重寄詞
 詞中有誓両心知 詞中に有り、誓は両心知
 七月七日長生殿 七解通七似知、長の生る伝
 夜半無人私語時
 在天願作比翼鳥 天にアレば、願う
         「比翼」の鳥にならんと
 在地願為連理枝 地にアレば、願う
         「連理」の枝とならんと
 天長地久有時尽 天長、地久、字、筑紫に有り
 此恨綿綿無絶期 此を恨む、綿綿と絶える記は無し
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