蘇定方・・・蘇我・・・?・・・蘇の時代

 2806日目・文字霊日記

 蘇定方・・・???・・・蘇我・・・???
 蘇       定  方
 よみかえる・・・ジョウホウ・テイホウ
 ↓↑       ↓↑     綴 方=『貞観政要』?
         定法・常法・浄法・情報
         乗法 (multiplication・掛け算) ?
         乗法の結果の答えは
         積(セキ・つむ・product)
         n × m = n times m=n multiplied by m
         multiply=mʌ'ltəplɑi
            =マァルタァプ   ラァイ
             真阿留多有譜   羅合意?
            =マ ルティプ   ラィ
             丸  太 浮(符・付・普=暜・譜)
                      等意?
             円(圓)=まろ=磨呂・万侶・萬侶
                太(ふとい・おほ・タイ)
         multi-ply(-plied, ~・ing)
          …を掛ける
          …を増やす・増大、増加させる          …を多様、多面的、複合的にする

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    蘇鉄=ソテツ(蘇鉄、学名:Cycas revoluta)
        裸子植物ソテツ科の常緑低木
        ソテツ類の中で
        日本で自生する唯一の種
        自然分布では日本固有種
        鉄蕉
        鳳尾蕉
       「蘇鉄」
        枯れかかった時に
       「鉄釘」を打ち込むと
        蘇るという伝承に由来・・・?
        ・・・鉄=金+失(うす・うしなう・あくび・シツ)
               失=𠂉(髪挿し・櫛)+一(イチ)+人
                 神指しの壱(壹・臺)のヒト
           釘=金+丁
               丁=一+亅
                チョウ
                テイ
                トウ
                あたる
                ひのと
                十干四番目
                五行の火
                方位は南
                つよい・さかん
                働き盛りの男性・壮年の男性
                しもべ・下働き、雑用の男性
                出遭う・遭遇する
                よほろ(よぼろ)
                公用に徴発された男子
                斧などで木を切る音
                書物の枚数を数える語
                町を細かく分けた区分
                ~丁目
                長さ・面積の単位
               「町」
             一丁=六十間・約109メートル
             サイコロの目の偶数
             丁か半か?
             丁抹デンマーク
             豆腐・拳銃などを数える語
             飲食物を数える語
             一丁あがり

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 ↓↑           
 蘇定方(592年~667年) ↓↑
             蘇我 馬子
             欽明天皇十三年
             551年
             ~
             推古天皇三十四年五月二十日
             626年6月19日
 蘇定方(645-592年=52歳)
       ↓↑↓     ↓↑ 
       645・・・「乙巳の変(645年)」
             蘇我入鹿・・・・・大王(鹿)に入る?
             推古天皇十九年
             611年
             ~
             皇極天皇四年六月十二日
             645年7月10日
             ↓↑
             蘇我蝦夷・・・蝦夷(えみし・えぞ・カイ)
             用明天皇二年
             586年
             ~
             皇極天皇四年六月十三日
             645年7月11日
 蘇定方(592年~667年)
ーー↓↑ーー↓↑ーー
 貞観(貞觀)
 日本元号の一
 天安の後、元慶の前
 859年~877年
 天皇清和天皇陽成天皇
 ↓↑
 貞観(貞觀)
 唐代
 太宗の治世の元号
 627年~649年・・・・・蘇定方(592年~667年)
 突厥との防衛戦に勝利
 後世の治政の範とされ
 『貞観政要(全十巻四十篇)』
 ・・・「呉兢」が編纂
 (太宗と名臣たちの論議の記録書
  唐王朝
  二代目の
  太宗(李世民)の治世)
 ↓↑
 『貞観政要(全十巻四十篇)』
 中宗の代に上呈したもの
 玄宗の代にそれを改編したもの
 2種類
 第四巻の内容が異なる
 伝本には
 元の
 戈直(カチョク)
 が
 欧陽脩
 司馬光
 による評を付して整理し
 明代に発刊された
 「戈直本」
 唐代に日本に伝わった
 旧本の二系がある
 朝鮮・女真西夏
 の周辺諸語に訳された
 ↓↑
 太宗
 と
 臣下
 魏徴・房玄齢・杜如晦・王珪
 ら重臣45名との政治問答
 ↓↑
 編纂
 呉兢
 による
 太宗の死後40~50年
 武則天周王朝
 が退位し
 中宗が復位
 唐朝が再興した頃
 貞観の政道の手本とし
 『貞観政要』を編纂し
 中宗に上進
 後
 玄宗の宰相
 韓休(672年~739年)
 が後世の手本となるように
 呉兢
 に命じて改編上進させた
 中宗に上進した
 初進本は
 中宗個人を対象とした
 天子が心得るべき篇
 輔弼篇
 直言諫諍篇
 があり
 玄宗
 への再進本は
 後世の手本とするものなので
 太子や諸王を
 戒める篇に改められている
 ↓↑
 鎌倉時代
 北条政子
 菅原為長
 に命じて和訳
 日蓮
 もこれを書写した
 江戸時代初期
 徳川家康
 が
 藤原惺窩
 を召して講義させ
 足利学校
 閑室元佶
 に命じて
 活字版を発刊させて普及に努めた
 明治天皇
 侍講の
 元田永孚
 の進講を受けた
ーー↓↑ーー↓↑ーー
 蘇定方(592年誕生~667年死没 七十五歳)
 592年(壬子) 蘇我馬子崇峻天皇を殺害
        推古天皇即位
 593年(癸丑) 聖徳太子が二十歳で摂政
        難波に四天王寺建立
 594年(甲寅) 仏法興隆の詔が出される
 596年(丙辰) 法興寺飛鳥寺)が完成
 600年(庚申) 隋に使いを送る(第一回遣隋使)
 601年(辛酉) 聖徳太子斑鳩宮を作る
 603年(癸亥) 秦河勝が蜂岡寺(広隆寺)を建立
 604年(甲子) 十七条憲法、冠位十二階の制定
         隋の煬帝即位
 607年(丁卯) 小野妹子を隋に派遣し、国書を届ける
 608年(戊辰) 隋が大軍をもって高句麗を攻める
        「小野妹子=蘇因高」が
         隋使
         斐世清らを伴い帰国
         妹子は8人の留学生を連れ再び隋へ
 610年(庚午) マホメットイスラム
         高句麗の僧
         曇徴が来日
         紙・墨・彩色などの製法を伝える
 611年(辛未) 聖徳太子の『三経義疏』の
        『勝鬘経義疏』ができる
 613年(癸酉) 聖徳太子の『三経義疏』の
        『維摩経義疏』ができる
 614年(甲戌) 犬上御田鍬を遣隋使として派遣
 615年(乙亥) 聖徳太子の『三経義疏』の
        『法華経義疏』ができる
 618年(戊寅) 隋が滅び唐が興る
 620年(庚辰) 聖徳太子蘇我馬子らによって
      『天皇記』『国記』
       などができる
 622年(壬午) 迫害のマホメット
         メッカからメディナに逃れる
         聖徳太子死没
 624年(甲申) 唐が「租庸調」の税制を布く
 626年(丙戌) 蘇我馬子
         蘇我蝦夷が跡を継いで大臣
 629年(己丑) 玄奘三蔵が経典を求めてインドに向かう
         舒明天皇即位
 630年(庚子) 犬上御田鍬の第一回遣唐使派遣
 642年(壬寅) 皇極天皇即位
 643年(癸卯) 山背大兄王らが
         蘇我入鹿に攻められ
         斑鳩宮で自害
 645年(乙巳)
 大化一年    中大兄皇子中臣鎌足
         蘇我入鹿大極殿で暗殺
        蘇我蝦夷は自害(乙巳の変
         孝徳天皇即位
         中大兄皇子が皇太子
         初めて年号(大化)制定
 646年(丙午)
 大化二年    改新の詔を宣する
 647年(丁未)
 大化三年    冠位改正、七色十三階とする
 651年(辛亥) イスラム帝国
         ササン朝ペルシアを滅ぼす
 652年(壬子)
 白雉三年    班田の終り・戸籍を作成
         難波長柄豊碕宮が完成
 653年(癸丑) 孝徳天皇中大兄皇子の対立
         皇子は母妹を連れて大和に帰る
 655年(乙卯) 斉明天皇即位
 658年(戊午) 阿倍比羅夫蝦夷討伐
         有間皇子が謀反の疑いで殺害
 661年(辛酉) ウマイヤ王朝が
         イスラム帝国確立
 663年(癸亥) 上毛野稚子が
         新羅に向い
        「白村江の戦い」で
         唐・新羅の連合軍に敗北
 664年(甲子) 冠位二十六階制定
         九州に防人を置き
         水城を築き防御
 667年(丁卯) 近江の大津京に遷都
         蘇定方死亡(592年~667年)
ーー↓↑ーー↓↑ーー
 668年(戊辰) 中大兄皇子天智天皇として即位
         中臣鎌足近江令を作る
 670年(庚午) 全国的に戸籍を作る(庚午年籍
         法隆寺が炎上
 671年(辛未) 近江令の施行
         天皇が漏刻を元に
         鐘楼を鳴らし時を知らせる
 672年(壬申) 天智天皇
         大海人皇子
         大津京大友皇子を滅ぼす
        (壬申の乱
         飛鳥浄御原宮に遷都
 673年(癸酉) 大海人皇子天武天皇として即位
 676年(丙子) 新羅朝鮮半島を統一
 681年(辛巳) 浄御原律令の編纂開始
 684年(甲申) 八色の姓、制定
 686年(丙戌) 天武天皇
         大津皇子
         謀反の疑いで捕らえられ自害
 687年(丁亥) ピピンフランク王国の実権を握る
 690年(庚寅) 持統天皇即位
         飛鳥浄御原令が施行
         高市皇子太政大臣
         戸令により庚寅年籍
 694年(甲午) 藤原京に遷都
 697年(丁酉) 東ローマ帝国イスラム軍と戦う
         持統天皇譲位し、文武天皇即位
 700年(庚子) 刑部親王藤原不比等らが律令を作る
 701年(辛丑) 大宝1年大宝律令の撰定完成
 702年(壬寅)
 大宝二年    遣唐使粟田真人山上憶良らを派遣
 707年(丁未)
 慶雲四年    文武天皇
         元明天皇即位
 708年(戊申)
 和銅一年    武蔵国から銅を献上
         和銅改元
         始めての貨幣「和同開珎」発行
ーー↓↑ーー↓↑ーー
 蘇定方
 唐の軍人・・・唐(トウ・当・問答)の意句差(いくさ)の比斗
 名は烈・・・・烈=列+火
 字は定方・・・蘇(読み替える)定方(定め方)?
 諡は荘
 本貫は
 冀州・・・・・冀(北の異なる)州(國・国)
        紀州・既習・奇習・季秋・貴秋
 武邑県・・・・武の邑の県=「武遊・武勇」を懸ける
ーーーーー
 「太秦わたりに
  大輔が侍りけるに
  つかはしける」

 「限りなく
  思ひ入り日のともにのみ
  西の山べを
  ながめやる哉」
 ↓↑
 売買=賣買⇔讀=言+賣・續=糸+賣
 賣=士+四+貝
   坴の上部⇒士+囧(窓)⇒四⇒續
 売=バイ・ショク・トク・イク
 ↓↑
 小野道風(894~966年)
 木工頭(きくのかみ)に任ぜられ
 弟
 小野頼風は武士となった
 ↓↑
 小野道風(894~966)
 遣隋使の小野妹子を祖
 藤原純友の乱を鎮圧した
 小野好古の弟
 小野小町の従姉妹
 ↓↑
 尾張藩国学者
 天野信景(1663~1733)は
 『塩尻』に
 「春日井郡松河戸の村民伝云
  松河の里は道風の生れし地なりと云云」
 と記録
 松平君山が
 「張州府志」に
 誕生地と伝え
 尾張藩諸学者の通説・・・
 誕生地と伝えられる
 松河戸町に
 尾張藩儒学者である
 秦鼎(はたかなえ)
 (1761~1831)撰文の
 「小野朝臣(道風)遺跡之碑」
 が
 文化十二年(1815)に建てられ
 「松河戸の村民はみな道風がここで生まれた」
 ということ伝をえている・・・
 (観音寺所蔵)
 伝承で
 「父の小野葛絃(くずお)が
  何らかの理由で
  松河戸に滞在していたとき
  里人の娘との間に生まれたのが道風で
  幼少時代を松河戸で過ごし
  十歳ころ
  父とともに京に上り、書で身を立てた」
 ・・・
 小野氏
 遣新羅使に任命された者
 大宰府の官人となった者
 外交に携わったと目される人物
 文化の面でも人物を輩出
 奈良時代
 大宰大弐に任ぜられた
 小野老(おののおゆ)
 の詠んだ万葉歌
 「青丹(あおに)よし
  寧楽(なら)の
  京師(みやこ)は
  咲く花の
  薫(にお)ふが如く
  今盛りなり
 (『万葉集』3―328)」
 ↓↑
 小野篁(たかむら)
 勅撰漢詩
 『経国集
 などに多くの漢詩を残し
 孫の
 小野道風(とうふう)は
 藤原行成
 藤原佐理(すけまさ)
 と共に「三蹟」と称され
 和様の能書家
 指定されている
 ↓↑
 小野妹子が2度目に隋に渡った6年後
 614年
 犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)
 が最後となる遣隋使に任命され
 隋から唐に替わった後
 最初の遣唐使に任命され
 630年
 唐に渡ったのも
 犬上御田鍬
 斉明天皇元年(655)
 「犬上白麻呂」
 が
 遣「高句麗使」に任ぜられ
 近江国犬上郡滋賀県犬上郡彦根市
 を本拠とした
 同郡豊郷(とよさと)町に
 犬上神社があり
 犬上氏の祖とされる
 稲依別(いなよりわけ)王
 (日本武尊の子)を祭っている
 犬上氏は百済からの渡来人・・・
 隣接する愛知(えち)郡に
 依智秦氏(えちのはたうじ)
 渡来系氏族が居住し、湖東の地域を開発
 ↓↑
 第十一首
 参議篁(小野篁
 「わたの原
  八十島かけて
  漕ぎ出でぬと
  人には告げよ
  海人の釣り舟」
 ↓↑
 太秦(うずまさ)
 雄略天皇の御世
 渡来系の豪族
 秦氏(秦酒公)が
 絹を
 「うず高く積んだ」ことから
 「禹豆満佐=うずまさ」の号を与えられ
 「太秦」の漢字表記を当てた・・・?
 秦氏は機織りの技術者集団
 絹布を租税としていた
 この地には絹布が
 「うず高く」積み上げられ
 朝廷から
 「兎豆満佐(うずまさ)」の姓を与えられた
 「うずまさ」に
 「太秦」の文字に当てた・・・?
 ↓↑
 奈良時代
 716年
 旧高句麗(高麗)の
 遺民1,799人が
 武蔵国に移住し
 高麗郡が設置
 日高市
 と
 飯能市
 の一帯が
 高麗郡
 ↓↑
 冀州(キシュウ)
 中国の行政区分の一
 山西、遼寧、河北、北京、天津
 フフホト(呼和浩特
 ウランチャブ(烏蘭察布)
 等七つの省市に分属
 ↓↑
 隋朝
 開皇初年に
 設置された
 長楽県を前身
 隋の時代は
 西部が
 沢城県と呼ばれていた
 606年(大業二年)
 信都県が廃止
 ↓↑
 紀元前106年(元封五年)
 漢の武帝
 全国十三州に分割し
 各州に
 刺史を置いた
 河北省を中心とする地域を
 冀州刺史部とし
 魏・鉅鹿・常山・清河・趙
 広平・真定・中山・信都
 の九郡国を属させた
 ↓↑
 前漢滅亡後
 軍閥
 王郎が
 邯鄲に拠って冀州を支配
 光武帝の侵攻により敗死
 後漢に入って
 高邑を州治とした
 ↓↑
 北魏
 皇始二年
 定州
 太和十一年
 瀛州
 熙平二年
 滄州
 に分割
 劉宋の代に
 山東省の領域内に
 僑州として
 「冀州
 あるいは
 「南冀州
 の省置が繰り返された
 ↓↑
 隋代
 当初は二郡を管轄
 607年(大業三年)
 郡制施行に伴い
 冀州は信都郡と改称
 下部に12県を管轄
 ↓↑
 唐朝
 信都郡は冀州と改称
 河北道の管轄
 662年(龍朔二年)
 冀州は魏州と改称
 同時に魏州が冀州と改称
 672年(咸亨三年)
 冀州と改称
 742年(天宝元年)
 郡制施行で
 信都郡とされ
 758年(乾元元年)
 再び
 冀州と改称・・・???
ーー↓↑ーー
 蘇邕の子
 隋末
 蘇邕は郷里の数千人を率いて
 叛乱の討伐
 定方は15歳で父の下で従軍
 蘇邕の死後
 部衆を引き継ぎ
 劇県の叛乱軍の
 張金称・・・金を張(葉瑠)る称
 楊公卿・・・楊(やなぎ・栁・柳)の公卿⇔小野道風
         ヤナギにカエル・・・八名義を変える?
          「太秦(うずまさ)わたりに
           大輔が侍りけるに
           つかはしける」
          「限りなく
           思ひ入り
           日のともにのみ
           西の山べを
           ながめやる哉」
 らを撃破
 後に
 竇建徳・・・竇=穴+賣・・・穴の売(賣)
               売買=有償契約・双務契約の典型
         穴+士+買
         宀+八+賣
         穴+士+罒+貝
         宀+八+士+買
         宀+八+士+罒+貝
         宀+八+十+一+罒+目+ハ
         トウ
         トク
         ドク
         ズ
         あな
         あなぐら
         みぞ
         物をたくわえておく穴
         くぐり戸
         みぞ・水道・水路
       建=廴+聿(イツ・イチ
             筆・書く
             とうとう・ついに
             自分から・自ら
             修める・述べる
             すばやい・すばやく走る
             共に・従う)
         廴+肀+二
         廴+肀+一+一
         廴=引き伸ばす・延長
         ケン
         コン
         たつ
         たてる
         くつがえす・・・・?・・・覆す
         たてる・定める
         おこす
         はじめる
         建物をたてる・建物がたつ
         申し立てる・意見を出す
         北斗七星の柄が指すある方向
         十二支のいずれかの方向
         陰暦・月建(朔)
         一月は「建寅(寅の方向)」
         二月は「建卯(卯の方向)」
         など
         くつがえす・・・覆す
         こぼす・・・・・溢す・零す
       徳=德=悳・・・得
 の麾下
 竇建徳の部将の
 高雅賢の養子となった
 高雅賢
 劉黒闥
 が死ぬと
 定方は郷里に帰った。
 ↓↑
 貞観初年
 匡道府
 折衝
 李靖
 の下で二百騎を率いて
 突厥を攻撃の先鋒
 霧の中で
 牙帳を襲撃
 突厥
 頡利可汗
 は逃亡
 李靖が到着すると
 突厥の一党はことごとく降伏
 凱旋すると
 定方は
 左武候中郎将
 永徽年間
 左衛勲一府中郎将
 程名振・・・・・・程の名の振?
 とともに
 高句麗出兵し破った
 右屯衛将軍
 臨清県公
 に封ぜられた
 ↓↑
 656年
 程知節・・・・・・程の知の節?
 に従って
 前軍総管をつとめ
 阿史那・・・・・・
 賀魯・・・・・・・
 を攻撃
 鷹娑川にいたった
 阿史那賀魯
 が2万騎を率いて対陣
 定方は
 総管の
 蘇海政・・・・・・
 とともに連戦
 突厥の別部の
 鼠尼施・・・・・・
 らが2万騎を率いて敵方に来援
 定方は騎兵の精鋭500を率い
 山嶺を越えて敵陣に討ち入って破り
 1500人あまりを殺害
 多くの武具や牛馬を鹵獲
 唐の軍中では
 副大総管の
 王文度
 が味方の疲労と士気の低下を見て
 深入りを諫め
 定方は追撃を主張
 程知節が
 怛篤城にいたり
 胡人を降伏させると
 王文度は
 降胡を殺して財貨を奪うことを主張
 定方はこれに反対
 王文度は奪った財貨を分配したが
 定方はひとつも取ることがなかった
 高宗がこのことを知ると
 程知節
 らが帰還した後
 王文度
 を庶民に落とした。
 ↓↑
 657年
 定方は
 伊麗道
 行軍
 大総管
 再び
 阿史那
 賀魯
 を攻撃
 任雅相
 と
 回紇の
 婆閏
 が副大総管をつとめた
 定方は
 アルタイ山の北に出て
 処木昆部を撃破
 俟斤の
 嬾独禄を降した
 定方は
 麾下の1000騎と
 回紇の1万人を率いて
 曳咥河に進軍
 阿史那賀魯と会戦
 定方の兵が少ないのをみて
 左右両翼を伸ばして包囲
 定方は歩兵に高所に拠らせ
 自らは精鋭の騎兵を率いて
 北原に陣した
 阿史那賀魯の軍は
 三たび唐の歩兵の陣を
 突き崩そうとしたが崩すことができず
 定方は
 騎兵で三十里をめぐって戦うと
 阿史那賀魯の軍は崩れて潰走
 唐軍が追撃
 数万の人馬を殺した
 翌日、定方が兵を進軍させると
 五弩失畢が部族こぞって唐に降伏
 阿史那賀魯
 と
 処木昆の
 屈律啜の数百騎は西方に逃走
 定方は副将の
 蕭嗣業
 と
 回紇の
 婆閏に
 邪羅斯川
 に向かわせて追撃
 定方
 と
 任雅相
 は新たに帰順した兵をまとめて、後詰め
 大雪で
 軍吏に進軍の中止を求められたが
 定方は兵を
 雙河まで進め
 阿史那弥射
 や
 阿史那歩真
 の軍と合流し
 阿史那賀魯の陣に迫った
 阿史那賀魯は狩猟の最中で
 定方はこれを襲撃して破った
 阿史那賀魯
 は
 石国・・・・?
 に逃れたが
 阿史那弥射の子の
 阿史那元爽が
 蕭嗣業と合流し
 阿史那賀魯を捕縛
 定方は
 左驍衛大将軍に任ぜられ
 邢国公に封ぜられた
 子の
 蘇慶節も
 武邑県公に封ぜられた
 ↓↑
 659年
 思結闕俟斤都曼が
 諸部を扇動し
 疏勒・朱倶波・渇槃陀
 の三カ国が唐に叛くと
 定方は
 安撫大使となって討伐
 葉葉水
 にいたり
 都曼が
 馬頭川
 を守ると
 定方は歩兵の精鋭1万と騎兵3000を選抜し
 昼夜分かたず三百里を駆け抜け
 都曼の陣の前に現れ
 都曼は驚いて城に逃げ込んだ
 唐軍がこれを攻め
 都曼は自らを縛って降伏
 パミール高原より
 西の地方も唐の勢力圏に入った
 定方が捕虜を
 乾陽殿に献上
 邢州鉅鹿の
 三百戸の食邑を加えられ
 左武衛大将軍
 ↓↑
 660年
 熊津道大総管
 百済の征討
 城山から海をわたって
 熊津口に上陸
 百済軍を撃破して
 真都城に進軍
 百済に勝利
 百済
 義慈や
 太子の
 隆は北方に逃走
 定方が
 泗沘城を包囲すると
 義慈の子の
 泰が自立して王を称した
 泰は抗戦を続けようとしたが
 義慈は開門し降伏
 百済の将軍の
 禰植
 と
 義慈
 は唐軍に降り、泰も捕らえられ
 百済
 義慈や
 隆・泰
 らは東都洛陽に送られた
 ↓↑
 定方は
 三カ国を滅ぼし
 子の
 蘇慶節
 は尚輦奉御の位を加えられた
 ↓↑
 663 年
 3月 阿倍比羅夫ら、新羅征討のため出発
 6月 百済の余豊璋
   謀反心の
   鬼室福信を斬り
   首級を塩漬けにする
 10月5日(天智天皇二年八月二十八日)
 白村江の戦い
 (唐・新羅連合軍 対 百済・日本連合軍)
 10月13日(天智天皇二年九月七日)
 百済が降伏
 百済人民が日本へ逃亡
 唐が
 単于都護府
 雲中に設置
 ↓↑
 663 年10月
 天智2年8月
  白村江の戦い
 (はくそんこうのたたかい、はくすきのえのたたかい)
 天智2年8月(663 年10月)
 朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)
 日本・百済遺民の連合軍と
 唐・新羅連合軍との戦争
 ↓↑
 定方は
 遼東道行軍大総管となり
 平壌道行軍大総管に転じた
 高句麗の軍を
 浿江で破り
 馬邑山の敵営を落とし
 平壌を包囲
 大雪で包囲を解いて帰還
 涼州安集大使に任ぜられ
 吐蕃
 吐谷渾
 と戦った
 ↓↑
 667年
 76歳で死去
 高宗は
 左驍衛大将軍
 幽州都督
 の位を追贈
 ↓↑
 伝記資料
 『旧唐書』巻八十三 列伝第三十三
 「蘇定方伝」
 『新唐書』巻百十一 列伝第三十六
 「蘇定方伝」
 ・・・原文は「ウィキペディアWikipedia)」・・・
 ↓↑
 蘇(ソ)=チーズ
 流蘇(ふさ)・鳥の尾や糸でつくった垂れ飾り
 屠蘇(トソ)
 蘇士(スエズ)
 蘇芳・蘇方・蘇枋(スオウ)
 蘇民書札(そみかくだ)
 蘇葉(ソヨウ)
 蘇婆訶(ソワカ)
 ↓↑
 甘栗=天津栗=板栗
    平安時代、大臣に新任の大饗(たいきよう)などのさい
    朝廷から蘇(そ)と甘栗を賜るならわしがあった
    それを届ける勅使を
    蘇甘栗使(そあまぐりのつかい)と呼んだ
    この甘栗は干栗(ほしぐり)・・・
    「延喜式」に搗栗(かちぐり)・平栗(ひらぐり)
    と記録・・・
 ↓↑
 蘇=ソ(漢)・ ス(呉)
   よみがえる・ 生きかえる・よみがえる
   「蘇生」
   草の名
   紫蘇 (しそ)
   蘇 (コケ・苔)
   蘇芳(すおう)
   蘇格蘭(スコットランド)
   蘇維埃(ソビエト)
   耶蘇(ヤソ)
 ↓↑ ↓↑
 蘇軾
 景祐3年12月19日
 (1037年1月8日)
  ~
 建中靖国元年7月28日
 (1101年8月24日)
 北宋の政治家・文豪・書家・画家・音楽家
 ↓↑
 東坡居士
 蘇東坡(ソトウバ)
 字は子瞻(シセン)
 坡公・坡仙
 諡は蘇文忠
 蘇洵の長子
 弟は蘇轍
 ↓↑
 「古文」の唐宋八大家
 蘇文忠
 蘇洵
 蘇轍
 韓愈・柳宗元・欧陽脩・曽鞏・王安石
 ↓↑
 子に
 蘇邁、蘇迨、蘇過、蘇遯
 曾孫は
 蘇公弼(威州刺史)
 玄孫娘は
 耶律楚材の夫人
 (蘇公弼の娘、耶律鋳の生母)
 ↓↑
 眉州眉山四川省眉山市東坡区)の出身
 嘉祐二年(1057年)22歳
 弟・蘇轍とともに
 進士となる
 科挙試験委員長は
 欧陽脩
 蘇軾、蘇轍、曽鞏の3名のみ合格
 ↓↑
 神宗時代
 唐末五代の混乱後の国政の改革
 王安石
 改革「新法」の施策
 具体的に
  ↓↑
 『周礼』の
 「一国万民の政治理念」・・・日本人的発想?
 「万民を斉しく
  天子の公民とする」
  ↓↑
 斉民思想に基づき・・・「日本人的発想」?
 均輸法・市易法・募役法・農田水利法
 など
 経済政策
 科挙改革
 学校制度整備
 などが行われた
  ↓↑
 蘇軾は
 欧陽脩・司馬光
 らとともにこれに反対し
 二度、流罪、追放・・・左遷
 元豊二年(1079年)
 蘇軾44歳
 湖州の知事
 国政誹謗罪で逮捕、尋問調書
 御史台の取り調べの際に
 蘇軾が残した供述書は
 「烏台詩案」
 と呼ばれた
 神宗の取り計らいで
 黄州(湖北省黄州区)へ左遷
 左遷先の土地を
 東坡と名づけ
 東坡居士と名乗った
 黄州生活は5年
 黄州時代の傑作が
 『赤壁賦』
 赤壁三国時代の古戦場
    西暦208年
    呉と蜀の連合軍が
    魏の水軍を破った場所
    黄州~長江を遡った
    南岸の嘉魚県の西にあった
 元豊八年(1085年)
 神宗死去
 哲宗が即位
 幼い哲宗に代わって
 宣仁太后
 垂簾朝政が八年間続き
 彼女の後押しで
 旧法党の官僚は要職に就き
 元豊九年(1086年)
 司馬光が宰相
 蘇軾も名誉を回復され
 五十歳で中央官界に復帰し
 翰林学士を経て
 礼部尚書に昇進
 ↓↑
 司馬光=新法を全て廃止方針に対し
 新法でも募役法のように
 理に適った法律は存続
 旧法派の内部の分裂・・・
 ↓↑
 司馬光の死後
 蜀党=蘇軾、蘇轍兄弟
 と
 洛党=程頤、程顥兄弟
 が党争
 ↓↑
 紹聖元年(1094年)
 再び新法派が力を持つと
 蘇軾は再び左遷(59歳)
 恵州(広東省)に流刑
 62歳
 海南島に追放
 66歳
 哲宗が死去し
 徽宗が即位
 新旧両党の融和で
 許され
 都に向かう途中病を得
 常州江蘇省)で死去
 ↓↑
 蘇軾は北宋最高の詩人
 『蘇東坡全集』に纏められている
 ↓↑
  題西林壁
 (西林壁に題す)

  横看成嶺側成峰
 (横より見れば嶺を成し、傍らよりは峰となる)
  遠近高低各不同
 (遠近・高低いつも同じきは無し)
  不識廬山真面目
 (廬山の真面目を知らざるは)
  只縁身在此山中
 (ただ身のこの山中にあるによる)
 ↓↑
 王安石とは政治的に対立していたが
 詩文を通じた交流
 要職を退いた後
 王安石
 蘇軾に対して七言絶句を送った
 ↓↑
 北山
  北山輸緑漲横陂
  (北山緑を輸横陂漲る)
  直塹回塘艶艶時
  (直塹、回塘、艶艶たる時)
  細數落花因坐久
 (細かに落花を數ふるは
坐すること久しきに因る)
  緩尋芳草得歸遲
 (緩やかに芳草を尋ねて
歸ること遅きを得たり)
 ↓↑
 蘇軾はこれに対して
  次荊公韻
 (荊公の韻に次す)
  騎驢渺渺入荒陂
 (驢に騎って渺渺として荒陂に入る)
  想見先生未病時
 (想見す先生の未だ病まざりし時を)
  勧我試求三畝宅
 (我に勧めて試みに三畝の宅を求めしむ)
  従公已覚十年遅
 (公に従うこと已に十年遅きを覚ゆ)
 と、答えた

 「荊公」=「王安石」のこと
 ↓↑
 書家として
 米芾・黄庭堅・蔡襄
 とともに
 宋の四大家
 蘇軾は
 二王(王羲之と王献之)を学び
 後に
 顔真卿・楊凝式・李邕を学んだ
 「赤壁賦」
 『黄州寒食詩巻』=『寒食帖』
 ↓↑
 蘇軾=祖父
 蘇序=父親
 蘇洵、唐宋八大家の一人
 
 母親=程夫人
    眉山の富豪、程文応の娘
    程濬の妹

 妻妾=王弗、16歳の時に19歳の蘇軾と結婚
    結婚後11年で死別
    王閏之、王弗の妹
    王弗が逝去三年後、蘇軾に嫁いだ
    王朝雲、蘇軾の妾
    紹聖三年、享年34で逝
ーーーーー
 ・・・???・・・今フユーズ・・・