張冠李戴(聴感履帯?) =相手を間違えること・誤認・食い違い

 2831日目・文字霊日記
 李(リ・キ)の訓・・・すもも
 ・・・茸=🍄=木之子=記の詞の🐭の音・・・
 鼠の移動・・・イエスの移動・・・
 李=木+子
   十+八+了+一
   リ
   すもも
   すもも
   バラ(薔薇)科の落葉高木
   役人・裁判官・獄官

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 ↓↑
 李=木+子
   十+八+了+一
   リ
   すもも
   すもも
   バラ(薔薇)科の落葉高木
   役人・裁判官・獄官
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 瓜田李下(家伝理化・花伝利加?)
   人から疑われるようなことはしないほうが良い
 公門桃李(黄門の統理・口問の党利?)
   政府の官職には
   優秀で能力のある人材が集中
 張王李趙(調応理調・張横李朝?)
   多い姓名で普通人のこと
 張冠李戴(聴感履帯?)

   相手を間違えること・誤認・食い違い
   張という人が
   李という人の冠を被るという意
 張三李四(調纂李史?)
   ゴロゴロいる普通の人
 桃三李四(問う纂李氏?)
   ゴロゴロいる普通の人
 桃傷李仆(東照利冨・東商利富?)
   兄弟の仲が悪く、互いに対立争うこと
 投桃報李(等々法理?)
   仲の良い友人同士で
   お互いに物を贈りあうこと
 桃李成蹊(党利成形?)
   徳がある人物に
   慕って自然と人が集まる
 桃李満門(統理万問?)
   すぐれた人材が数多く集まること
 道傍苦李(同望句理?)
   誰からも関心を示されず
   見捨てられたもの
 道傍苦李(同望句理?)
   上品で趣きや味わいのある夏の遊び
   瓜を水に浮かべて
   李を水に沈めること
   「瓜を浮かべて李を沈む」
   浮瓜沈李(負荷沈理)
   李下瓜田(理科花伝)

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 ↓↑
 NHKニュース
 @nhk_news33分
 ↓↑
 中国の唐の時代の墓誌
 日本から渡った
 吉備真備が書いたものか
 2019年12月25日 17時48分
 ↓↑
 唐時代の官僚の墓石に刻まれた墓誌
 唐に渡っていた
 吉備真備によって書かれたとみられる・・・
 吉備真備が書いた文字は
 日本国内でも見つかっていないとして
 貴重な発見だと注目・・・
 ↓↑
 25日
 中国の唐の時代の官僚で
 遣唐使など
 外国からの使節の受け入れを
 担っていた
 李訓
 という人物の
 墓石に刻まれていた
 328文字の墓誌・・・
 ↓↑
 6年前に河南省洛陽で発見
 李訓の生前の経歴などが記され
 文章の最後に
 「日本国朝臣備書」
 と刻まれていた
 「朝臣備」は
 遣唐使とともに
 留学生として唐に渡っていた
 吉備真備を指す・・・
 ↓↑
 吉備真備
 奈良時代に2度にわたって唐に渡り
 帰国後、日本の文化の発展に貢献し
 右大臣にまで出世
 ↓↑
 墓誌
 広東省
 深圳(シンセン)
 「望野博物館」に保管
 ↓↑
 吉備真備
 怡土城築城
 ↓↑
 長さ35センチ、幅36センチ、厚さ8・9センチ
 の石に
 計19行
 計328字の漢字が刻まれていた
 唐王朝
 外国使節の接待などをつかさどる
 「鴻臚寺(こうろじ)」の
 役所の中級官僚だった
 李訓(りくん)の墓誌
 開元二十二(734)年六月二十日
 死去
 六月二十五日
 に埋葬
 ↓↑
 末尾の一行
 「秘書丞(ひしょじょう)
  褚思光(ちょしこう)
  文」
 「日本国朝臣(あそん)備書」
 墓誌の文章の作成者が
 「褚思光」という中国人
 その文章を書いたのが
 「備」と呼ばれる人物
 吉備真備=「真備」
 日本の王朝での地位などを示す
 「朝臣」が記されている
 ↓↑
 吉備 真備
 元の名は
 下道 真備(しもつみち の まきび)
 姓は下道朝臣
 のち
 吉備朝臣
 下道氏(下道朝臣
 吉備地方豪族
 吉備氏の一族
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 異説
 吉備彦之孫
 鴨の吉備麻呂・右大臣
 この人物が吉備真備
 賀茂保憲
 賀茂光栄
 を
 吉備真備の末裔
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 備中国下道郡(岡山県倉敷市真備町)出身
 霊亀二年(716年)
 遣唐留学生
 養老元年(717年)
 阿倍仲麻呂
 玄昉
 らと共に入唐
 唐に18年間
 天平7年(735年)
 玄昉と同船で帰路に就き
 種子島に漂着
 多くの典籍を携えて帰朝
 唐では
 経書史書のほか
 天文学・音楽・兵学
 などを学び
 帰朝時には
 経書
 (『唐礼』130巻)
   天文暦書(『大衍暦経』1巻
  『大衍暦立成』12巻)
 日時計(測影鉄尺)
 楽器(銅律管・鉄如方響・写律管声12条)
 音楽書(『楽書要録』10巻)
 弓(絃纏漆角弓・馬上飲水漆角弓
   露面漆四節角弓各1張)
 矢(射甲箭20隻、平射箭10隻)
 などを献上
  『東観漢記』
 をもたらした
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 帰朝後
 聖武天皇
 光明皇后
 の寵愛を得
 天平七年(735年)中
 従八位下から正六位下
 天平八年(736年)
 外従五位下
 天平九年(737年)
 従五位上
 天平十年(738年)
 橘諸兄が右大臣に任ぜられ
 真備と同時に帰国した
 玄昉と共に重用
 真備は右衛士督を兼ねた
 天平十一年(739年)八月
 母を葬る
 天平十二年(740年)
 真備と玄昉を除かんとして
 藤原広嗣大宰府で反乱
 (藤原広嗣の乱
 天平十三年(741年)
 東宮学士として
 皇太子・阿倍内親王孝謙天皇称徳天皇
 に『漢書』や『礼記』を教授
 天平十五年(743年)
 従四位下
 春宮大夫兼春宮学士に叙任
 天平十八年(746年)
 吉備朝臣の姓を賜与
 天平十九年(747年)
 右京大夫
 天平勝宝元年(749年)
 従四位上
 天平十五年(743年)八月
 孝謙天皇即位
 藤原仲麻呂が権勢
 真備や玄昉、諸兄と対立
 玄昉は
 天平十七年(745年)
 筑紫観世音寺別当に左遷
 翌年に同地で死没
 真備は
 天平勝宝二年(750年)
 地方官の筑前
     肥前守に左遷
 天平勝宝三年(751年)
 遣唐副使に任命
 天平勝宝四年(752年)
 入唐
 阿倍仲麻呂と再会
 天平勝宝五年(753年)
 帰国の途で
 屋久島へ漂着
 紀伊国太地に漂着後
 帰朝

 帰朝後
 天平勝宝六年(754年)
 正四位下大宰大弐に叙任
 九州に下向
 天平勝宝八歳(756年)
 新羅防衛のため
 筑前国
 怡土城を築き
 天平宝字二年(758年)
 大宰府
 唐での
 安禄山の乱
 に備えるよう勅受
 暦学が認められ
 儀鳳暦
 に替えて
 大衍暦
 が採用
 天平宝字八年(764年)
 造東大寺長官
 七十歳で帰京
 藤原仲麻呂の乱
 緊急に従三位に昇叙
 中衛大将として
 追討軍を指揮
 乱鎮圧
 仲麻呂は戦死
 天平神護元年(765年)
 勲二等
 天平神護二年(766年)
 称徳天皇孝謙天皇重祚
 と
 法王に就任した
 弓削道鏡の下で
 中納言
 同年の
 藤原真楯
 薨去に伴い
 大納言
 従二位・右大臣に昇進
 左大臣
 藤原永手
 と共に政治を執った
 神護景雲四年(770年)
 称徳天皇が崩じ
 娘(妹)の
 由利を通じて
 天皇の意思を得る立場にあり
 永手らと
 白壁王(光仁天皇)の立太子を実現
 光仁天皇の即位後
 真備は老齢を理由に辞職を願い出るが
 光仁天皇
 兼職の中衛大将のみの辞任を許し
 右大臣の職は慰留
 宝亀二年(771年)
 辞職を願い出て許された
 宝亀六年(775年)十月二日
 薨去・享年八十
 最終官位は
 正二位前右大臣
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 奈良教育大学の構内に
 真備の墓
 吉備塚(吉備塚古墳)がある
 ↓↑
 孔子を始めとする
 儒教の聖人を祭る朝廷儀礼である
 釈奠の整備にも当たった
 著書
 『私教類聚』『道弱和上纂』『刪定律令
 など
 在唐中
 書は
 張旭に学び
 帰朝後、晋唐の書を弘めた
 古筆中に
 『虫喰切』『南部の焼切』
 が現存
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 玄宗がその才を惜しんで帰国させなかった
 袁晋卿(浄村宿禰
 という音韻学に長けた少年を連れて帰朝
 藤原長親
 によれば
 この浄村宿禰という人物は
 呉音だった漢字の読み方を
 漢音に改めようと努め
 片仮名を作ったとされる
 帰路で
 九尾の狐も同船していた・・・
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 中世の兵法書などでは
 張良が持っていたという
 『六韜三略』の兵法を持ち来たらした
 真備を日本の兵法の祖とした
 真備は
 陰陽道聖典
 『金烏玉兎集』を唐から持ち帰り
 常陸国
 筑波山麓で
 阿倍仲麻呂の子孫に伝えようとした・・・
 金烏は日(太陽)
 玉兎は月
 安倍晴明
 阿部仲麻呂の一族の子孫・・・
 『金烏玉兎集』は
 晴明が用いた陰陽道の秘伝書
 鎌倉時代末期か
 室町時代初期に作られた書
 伝説によると
 中国の
 伯道上人という仙人が
 文殊菩薩に弟子入り開いた
 文殊菩薩から授けられたという秘伝書
 『文殊結集仏暦経』
 を中国に持ち帰ったが
 その書が『金烏玉兎集』
 『今昔物語集』では
 玄昉を殺害した
 藤原広嗣の霊を
 真備が陰陽道の術で鎮めた
 『刃辛抄』では
 陰陽書
 『刃辛内伝』を持ち来たらしたとし
 真備を日本の陰陽道の祖としている・・・
 『宇治拾遺物語
 他人の夢を盗んで自分のものとし
 そのために
 右大臣まで登ったという・・・説話
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 系譜
 父 下道圀勝
 母 楊貴氏
   または
   倭海直男足の娘
   髪長支姫
 伯父 下道圀依
 兄弟 吉備乙吉備
    吉備直事
    吉備廣
 姉妹(娘)
    吉備由利(吉備由利子)
 妻 不詳
 生母 不明の子女
 女子 吉備由利
 男子 吉備泉
   (天平十二年~弘仁五年(740~814年)
 男子 吉備与智麻呂
 男子 吉備書足
 男子 吉備稲万呂
 男子 吉備真勝
ーーーーー
 ・・・???・・・