イズレ、ダレもがユメのナイ世界へイク・・・

 2815日目・文字霊日記

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 弐拾弐=念+貳・・・2+0+1+9+1+1+2+2=18・拾捌

 ・・・歴史上の「人物名」の「ヘン」・・・
 ・・・・・・・「数=かず=和」の「ヘン」・・・
 ・・・「滅び行く者達の興亡」・・・
 ↓↑
 334年
 干支=甲午
 日本
 仁徳天皇二十二年・・・弐拾弐=念+貳
 ↓↑
 中国
 東晋=咸和九年・・・咸(あまねく)和(やわらぐ)
 後趙=延熙元年・・・延(のばす)熙(キ)=𦣞+巳+灬=喜ぶ・広げる
                      𦣝+巳+灬=明らかにする
           𦣝=乳房
           巳=抱きつく赤子
           巸(イ)=赤子が乳を飲んで喜び穏やかになる
                赤子に乳を飲ませて養育する意
 成漢=玉衡二十四年・・・玉(たま)を衡(はかる)
 前涼=建興二十二年・・・建(たける)を興(おこす)
     (西晋元号を継続使用)
 代=烈皇帝(拓跋翳槐)六年
 ↓↑
 朝鮮
 高句麗=故国原王  四年・・・故国は原の王
 百済 =比流王 三十一年・・・流れを比べる王
 新羅 =訖解王 二十五年・・・訖(言を乞う)を解する王
 ↓↑
 後趙の皇帝石弘が廃位の後殺害される
 成漢の初代皇帝李雄が崩御、李班が即位
 成漢の皇族李期が李班を殺害して皇帝に即位
 ↓↑
 死亡
 陶侃、中国の西晋東晋の武将(259年~334年)
 石弘、後趙の第2代皇帝。(313年~334年)
 ↓↑
   石 弘(せき こう)・・・石(いし・いわ)=丆(面)+口(〇)
               弘(ひろし・ひろい)=弓+厶
               弘文天皇?・・・大友皇子=伊賀皇子
              妃=十市皇女
              妃=藤原耳面刀自(藤原鎌足女)
                (耳面刀自=みみもとじ
                      みみものとじ)
              娘=壱志姫王(いちしひめのおおきみ)
              息子=葛野王~淡海真人・朝臣の祖(→淡海三船
              母=伊賀采女宅子娘
             (いがのうねめ・やかこのいらつめ)
              姉妹=御名部皇女(みなべのひめみこ)
                 母は
                 蘇我倉山田石川麻呂の娘、姪娘
                 同母妹は阿陪皇女(元明天皇
                 高市皇子の正妃
 ↓↑ ↓↑            長屋王の母       
   五胡十六国時代
   後趙の第2代皇帝
   石勒・・・274年~333年8月
        字は世龍
        上党郡武郷県(山西省晋中市楡社県北西)
        出身の
        羯族・・・羯(ケツ・去勢した羊)
       (匈奴羌渠種の子孫
        羯人・・・羯諦羯諦 波羅羯諦?
             羯啼羯啼 波羅羯啼?
             羯帝羯帝 波羅羯帝?
             揭諦揭諦 波羅揭諦?
             故説
             般若波羅蜜多呪
             即説
             呪曰
             羯帝羯帝 波羅羯帝?
             波羅僧 羯帝
             菩提僧莎訶
             般若心経
        「その先は匈奴の別部
         分散して上党武郷の
         羯室に住んだので羯胡と号した」
        後趙が滅んだ350年頃
        漢人
        冉閔の大虐殺で
        歴史から姿を消した)
        元の名を㔨
        幼名は㔨勒
        祖父は耶弈于
        父は周曷朱(乞翼加)・・・乞食に翼を加える
                     古事記に與句を加える?
        奴隷の身分から
        中原を統べる皇帝(鹿)まで昇った
                 ・・・滋賀・近江?
        中国史上唯一の人物
   ・・・石(いし)の・・・石=いし=医師・意思・意志・遺志
                 ウズベキスタン(Oʻzbekiston)
         ウズベキスタン=宇受別記州譚???
                 宇受部月州譚・・・宇受女=猿女
                 月即別・月祖伯
                 烏茲別克斯坦
                 烏茲別克斯坦
                 烏茲別克・烏茲別・克斯坦
                 石国(タシュケント・Toshkent)
                 石州=イシス・磐国・岩国
                 磐井の乱・岩居の伽藍
                 石猿=孫悟空=斉天大聖
                 明の民間説話
                『西遊記
                 冥界を司る
                 地藏王菩薩が
                 孫悟空(斉天大聖)
                 地獄から
                 天の玉皇大帝に
                 上奏する
                 花果山・水簾洞・美猴王
                 觔斗雲・如意金箍棒
 ↓↑ ↓↑ 勒(ロク)=革+力⇔弥勒菩薩
                 地蔵菩薩=クシティガルバ
                 地獄道・餓鬼道・畜生道修羅道
                 人道・天道に現れて衆生を救う菩薩
                 六道能化
              廿+中+十+力
              ロク
              おさえる
              おさめる
              きざむ
              くつわ
              ほる
              抑えつける・強制する
              まとめる・統率する
              きざむ・ほる
 ↓↑ ↓↑         くつわ・おもがい
   の次子
   字は大雅
   父は石勒
   母は程夫人
   石勒
   の死後に帝位に即いた
   実態は
   石虎(叔父)
   の傀儡
   翌年に殺害された
 ↓↑
   313年
   石勒
   の次子として生まれた
   322年2月
   石興
   が世子だったが早世し
   石弘が世子に立てられ
   中領軍の統率
   衛将軍に任じられ
   開府辟召
  (自らの幕府を開く事)を認められた
   326年10月
   石勒は鄴の宮殿を建て
   石弘に鄴の統治を任せようと考えたが
   鄴は
   中山王・・・中山=チュウサン
           =なかやま
           =那珂の讃(撰・宋・纂・簒)
         中大兄皇子・・・那賀大江(覆え)?   
   石虎(石勒の従子)
      ・・・従兄弟・従兄・伊都子・伊斗子?
    ・・・石虎=石(岩・磐)の
       虎(寅・斗羅・取等)・・・大海人皇子
   が守っており
   鄴(河南省の都)
    ・・・鄴=業+阝=ギョウ
         业+䒑+未+阝
         业+丷+一+未+阝
         业+䒑+一+木+阝
         业+丷+一+一+木+阝
   を譲る考えは無かった
   石勒は
   程遐(石弘の母の兄)・・・?
    ・・・程
       遐=辶+叚=返
         叚=異体字「假・𠖊・𠭊・仮」
           簡体字「假」⇔イ+段=仮
                   階段⇔階反
                    段=反
         叚=ケ・カ=仮
           かりる・かす
           たとえれば
           もし~であれば
           if~as that~
 ↓↑ ↓↑    ↓↑ ↓↑
       瑕疵=玉+𠭊+疒+此
          玉+𠭊+疒+止+匕
          カ
          あやまち
          きず・欠点・かけめ
          過失・つみ・とが
          はるか・遠い
          瑕疵の玉 =和氏の璧=連城の璧
         (かしのタマ・かしのヘキ)
         『韓非子(和氏篇十三)』
         『史記
 ↓↑     ↓↑  ↓↑ ↓↑
       蝦夷=虫+𠭊+夷
          虫+𠭊+大+弓
          虫+𠭊+大+弓
        中+厶+𠭊+一+人+弓
        中+厶+尸+二+ヨ+又+一+人+弓
        中+厶+厂+三+コ+又+一+人+弓
        中+厶+反+一+人+弓
 ↓↑     ↓↑
       霞=雨+𠭊
           𠭊=叚(口+ㅑ+コ+又)
           叚=口+ㅑ+コ+又
           𠭊=厂+≡+ヨ+又
       鍛=金+段・・・鍛冶
       鍜=金+𠭊・・・錏鍜
       鍜(カ・ゲ・しころ)≠鍛(タン・きたえる)
      錏鍜(アカ)=冑・兜の
             左右や後方に垂らし
             首筋を守る防具
 ↓↑  ↓↑
   と密談し
   石虎の家室を鄴から移らせた
   石虎は
   程遐を怨み
   程遐の家を夜襲させた
   石弘は鄴の鎮守を命じられ
   禁兵1万人を配され
   車騎が統べていた54の陣営全てを任せられた
   驍騎将軍
   領門臣祭酒王陽が
   六夷(胡族)を統率し
   石弘を補佐
   330年2月
   石勒が趙天王を称し・・・天王=天皇
   石弘は天王立太子
   9月
   石勒が帝位に即く
   石弘は立皇太子
   石勒は側近の
   徐光へ
  「大雅(石弘)は穏やかな性格で
   将家の子でないかのようだ」
   と言うと
   徐光は
  「漢祖(劉邦)は馬上で天下を取り
   孝文(劉恒)は静守した
   聖人の後
   必ずや世に粗暴な者は不要となる
   これこそ
   天の道なのです」
   と答えた
   徐光は再び
  「皇太子は仁孝温恭ですが
   中山王(石虎)は雄暴多詐で
   もし一旦陛下に不慮のことがあれば
   社稷の危機を招くと憂慮しております
   中山の威権を少しずつ奪い
   太子を
   早く朝政に参画させられますように」
   と進言すると
   石勒は内心同意したが従わなかった
   これ以降も
   徐光・程遐は
   石勒へ
   強大な権力を有する
   石虎を除き
   石弘の地位安定を幾度も進言したが
   石勒は聞き入れなかった
   332年
   石勒は石弘に
   尚書の奏事の決済を命じると
   中常侍
   厳震にはこれを監督させ
   その可否を確認させた
   厳震は実質的に
   征伐・刑断の大事を預かるようになり
   威権は宰相をも凌ぐ程となっ
   石虎は一時の権勢を失って不満を募らせた
   ・・・「天武天皇大海人皇子)」・・・?
   333年5月
   石勒は病に倒れる
   石虎・石弘・厳震
   を呼び出して禁中に控えさせた
   石虎は石勒の命と偽って
   石弘・厳震、内外の群臣や親戚を退け
   誰にも石勒の病状を伏せ
  「大雅(石弘の字)」
      石弘=弘文(大友皇子)?
    雅=鴉=烏=卯(兎・鵜=鸕)・・・?
   はまだ幼いので
   恐らく朕の志を継ぐにはまだ早い
   中山(石虎)以下
   各々の群臣は
   朕の命に違う事の無きよう努めよ
   大雅(石弘の字)は
   斌(石斌)
   と共に協力し
   司馬氏の内訌を汝らの戒めとし
   穏やかに慎み深く振舞うのだ
   中山王は深く
   周霍(周公旦と霍光)を三思せよ
   これに乗じる事の無い様に」
   と遺命を告げた・・・
   7月
   石勒が崩御
   石虎は
   石弘の身柄を抑え、朝廷に臨び
   程遐・徐光の逮捕を
   廷尉に下し
   子の
   石邃を呼び寄せ
   兵を与えて宿衛に侵入させた
   文武百官はこれに服従
   石弘は大いに恐れ
   石虎へ位を譲ろうとしたが
   石虎は
  「君(君主)が薨じたならば
   世子が立つものです
   これは礼の常であり
   臣はどうしてこれを乱せましょうか」
   と応じなかった
   石弘
   は涙を流して頑なに位を譲ろうとしたが
   石虎は怒って
  「もしその任に堪えられなかったならば
   自ずと天下で大議が起こりましょう
   どうして
   今その論を預かるに足りましょうか」
   と言い放ち
   石弘
   は強制的に皇帝に即位させられた
   延熙と改元
   嫡母の
   劉皇后は皇太后に立てられ
   文武百官は位を一等進められ
   程遐・徐光
   は誅殺された
   石勒は
   明帝と諡し、廟号を高祖とした
 ↓↑ ↓↑
   後趙の将軍
   石聡
   譙郡太守
   彭彪
   は各々
   東晋へ使者を派遣し、帰順を要請
   東晋朝廷は督護
   喬球に将兵を与えて救援させたが
   到着する前に
   石虎は兵を派遣して石聡らを誅殺した
   8月
   石弘は
   石虎を
   丞相・魏王・大単于として九錫を下賜
   魏郡を始め13郡を封国とし
   百揆を全て取り仕切るよう命じた
   石虎
   は形式的に辞退したがその命を受けた
   領内の死刑以下に大赦
   石虎の妻
   鄭桜桃を魏王后
   子の
   石邃を
   魏太子に立てた
   石邃を
   使持節・侍中・大都督
   中外諸軍事・大将軍・録尚書事に任じ
   石宣を
   使持節・車騎大将軍・冀州刺史に任じて
   河間王に封じ
   石韜を
   前鋒将軍・司隷校尉に任じて
   楽安王に封じ
   石遵を
   斉王に封じ
   石鑑を
   代王に封じ
   石苞を
   楽平王に封じ
   太原王
   石斌を
   章武王に改封した
 ↓↑ ↓↑
   石勒の文武旧臣は
   左右丞相府の閑職に追いやられ
   代わって
   石虎の府に仕えていた側近が重職を独占
   石虎は
   太子宮を
   崇訓宮
   と改称
   劉皇太后以下をみな移住させた
   鎮軍将軍
   夔安を
   左僕射に
   尚書
   郭殷を
   右僕射に任じた
 ↓↑ ↓↑
   劉皇太后
   彭城王
   石堪と共に密かに
   石虎討伐を目論み
   石堪が
   兗州に出奔して
   南陽
   石恢を盟主として担ぎ
   劉皇太后が詔をもって
   各地の諸将を集めて
   石虎を討伐しようとした
   9月
   石堪は
   襄国を出
   軽騎兵を率いて
   兗州を強襲したが
   落とす事が出来なく
   南へ逃走して
   譙城に入った
   石虎は
   将軍
   郭太
   らを派遣して追撃を命じた
   郭太らは
   石堪を
   城父において捕らえ
   襄国へ送還
   石虎はこれを
   火炙りで処刑
   劉皇太后を誅殺
   石恢を
   襄国に召還
   石弘の母
   程夫人を皇太后に立てた
   10月
   関中を統治の
   石生
   洛陽を統治の
   石朗
   は各々
   石虎討伐の兵を挙げ
   石生は
   秦州刺史を自称
   東晋に使者を派遣して帰順を請うた
   氐族酋長
   蒲洪は
   この混乱に乗じて
   後趙から離反し
   雍州刺史・北平将軍を自称し
   西進して
   前涼君主
   張駿に帰順した
   石虎は子の
   石邃に襄国の守備を任せ
   自ら歩兵騎兵7万を率いて出撃
   金墉(洛陽城の一角)へ進んで
   石朗軍を潰滅させ
   石朗は生け捕られ
   足を切断されてから
   殺された
   石虎は進軍し
   長安に到達
   子の
   石挺を
   前鋒大都督に任じた
   石生は将軍
   郭権に
   鮮卑の渉璝部の兵2万を与え
   石虎を迎え撃たせ
   石生自らも大軍を統率して後続し
   蒲坂まで進んだ
   郭権は
   潼関において
   石挺軍と激突し大勝
   石挺
   丞相左長史
   劉隗らは戦死
   石虎は
   澠池まで軍を退いた
   郭権配下の鮮卑は密かに
   石虎と通じ
   石生を裏切って攻撃に転じた
   石生は蒲坂に軍を留めており
   石挺が戦死した事を知らなかったので
   これに恐れ慄き
   単騎で長安へ逃走
   郭権は離散した兵3千を再び集め
   越騎校尉
   石広と
   渭汭において対峙
   石生は長安からも撤退し
   鶏頭山(鄠県の東にある)
   へと潜伏し
   将軍
   蒋英に長安を守らせた
   石虎は
   石生が逃亡したと知ると
   軍を進めて入関
   長安へ侵攻
   10日余りで陥落させ
   蒋英らを処断
   石生の部下は
   鶏頭山
   石生を殺害し
   石虎に降伏
   郭権は
   隴西へと逃亡
   石虎は
   諸将を分けて
   汧・隴に駐屯させ
   雍州・秦州の
   漢人胡人10万戸余りを
   関東に移住させた
   将軍
   麻秋を派遣し
   蒲洪討伐を命じると
   蒲洪は2万戸を伴って
   再び石虎へ降伏
   石虎はこれを許し
   光烈将軍・護氐校尉に任じた
   秦州・雍州の民と氐族
   羌族の10万戸余りを関東へ移住させ
   蒲洪を
   龍驤将軍・流民都督に任じ
   枋頭(河南省鶴壁市浚県)に駐屯
   羌族酋長の
   姚弋仲を
   奮武将軍・西羌大都督に任じ
   兵数万を率いさせて
   清河の
   灄頭
   に移らせた
 ↓↑ ↓↑
   石虎は
   襄国に帰還し
   大赦を下した
   石弘には自らに
   魏台の建設を命じるよう促し
   魏が漢を輔けた故事に倣った・・・
   12月
   郭権は
   上邽に拠ると
   東晋へ使者を派遣し帰順を請うた
   京兆・新平・扶風・馮翊・北地
   はこれに呼応した
   334年1月
   延熙と改元
   鎮西将軍
   石広は
   郭権討伐に向かったが返り討ちに遭った
   3月
   石虎は将軍
   郭敖
   章武王
   石斌
   に歩兵騎兵4万を与え
   郭権討伐を命じ
   郭敖らは出撃
   華陰まで進んだ
   4月
   上邽の豪族は
   郭権を殺害し
   後趙に降伏
   石虎は
   秦州の3万戸余りを
   青州并州の諸郡に移住させた
   仇池の南氐
   楊毅
   は後趙へ人質を送り、修好を求めた
   長安出身の
   陳良夫は
   黒羌へ逃走
   北羌王
   薄句大らと結託し
   北地・馮翊を侵犯し
   石斌・郭敖と対峙
   楽安王
   石韜
   らは騎兵を率いて
   薄句大の背後を突き
   石斌らと挟撃して破り
   薄句大を
   馬蘭山へ敗走させた
   郭敖は勝ちに乗じて深追いしたが
   反撃に遭って大敗
   7・8割の兵を失ったので
   石斌らは軍を収めて
   三城に帰還
   石虎は使者を派遣して
   郭敖を誅殺
   秦王
   石宏が怨み言を言ったとして
   石虎は彼を幽閉
   10月
   石弘は自ら
   璽綬(天子の印と組紐)を携えて
   魏宮を詣でると
   石虎へ帝位を譲る意を伝えた
   石虎は
  「帝王の大業というものは
   天下が自ずと議をなすものです
   どうしてこれを自ら論じましょうか」
   と拒絶
   石弘は涙を流し宮殿に戻り
   母の
   程皇太后
  「先帝の後裔は真に無くなりましょう」
   と語った
   尚書
  「魏台(石虎)が
   唐・虞の禅譲の故事に依る事を求めます」
   と奏じたが
   石虎は
  「弘は暗愚である
   喪中にありながら
   このような礼なき振る舞いを行うとは
   万国の君となるべき存在ではない
   これは廃するべきであり
   どうして禅譲など受けようか」
   と述べた。
   11月
   石虎は
   丞相
   郭殷に節を持たせて入宮させ
   石弘を廃して
   海陽王に封じた
   石弘は群臣へ向けて
  「庸昧(愚鈍)であったため
   大統を纂承するに堪えられなかった
   群臣を顧りみれば
   慚愧するばかりである
   これもまた天命が去ったと言う事であろう
   これ以上何を言おうか」
  と言い残した
  石弘は
  程皇太后
  秦王
  石宏
  南陽
  石恢
  と共に幽閉され
  殺害された
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 宗室
 父
 石勒
 母
 程氏
 兄
 石興(最初の世子、早世)
 弟
 石宏(秦王)
 石恢(南陽王)
 石斌(石虎の子、石勒の養子となる、太原王)
 石堪(旧姓は田、石勒の養子となる、彭城王)
 石生(石勒の養子となる、河東王)
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 楊難敵、前仇池の第2代君主
 李雄、成漢の初代皇帝(274年~)
 李班、成漢の第2代君主(288年~)
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 338年
 干支=戊戌
 日本 :
 仁徳天皇二十六年
 皇紀998年・・・339年→999年
 中国
 東晋=咸康四年
 後趙建武四年
 成漢=玉恒四年、漢興元年
 前涼=建興二十六年
   (西晋元号を継続使用)
 前燕=太祖文明帝(慕容皝)五年
 代 =建国元年
 朝鮮
 高句麗=故国原王 八年
 百済 =比流王三十五年
 新羅 =訖解王二十九年
ーーーーー
 卑弥呼(生年不明~242年~248年)
 臺與(とよ・いよ・生没年不詳)
 『三国志 (魏書東夷傳倭人之条)』
 卑弥呼の宗女
 卑弥呼の跡を十三歳で継いだ
 『魏志倭人伝』・・・「壹與」
 『梁書倭国伝』・・・「臺與
 『北史倭国伝』・・・「臺與」
 張政が倭に渡った
 正始八年(247年)
 ~
 卑弥呼
 『梁書』の記録
 正始十年(249年)・・・四月に嘉平改元
 までに逝去・・・
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 泰始元年(265年)十二月
 曹操の魏
 司馬懿の晋
 へ禅譲革命
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 壹與の女王継承と継承後・・・
 倭の五王(互応)・・・
 150年後
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 413年 義熙九年
     倭王讃朝貢・・・
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 421年 安東将軍?(倭讃)
 438年 安東将軍 (倭珍)
 443年 安東将軍 (倭済)
 451年 安東大将軍(倭済)
 462年 安東将軍 (倭興)
 478年 安東大将軍(倭武)・・・雄略天皇
             (大泊瀬幼武・大泊瀬幼武尊)?
             (大長谷若建命・大長谷王)?
 479年 南斉建国
     鎮東大将軍(倭武)
 502年 梁建国
     征東将軍 (倭武)
   (征東大将軍?)
ーーーーー
 天豊姫命説
 尾張氏、海部氏の祖
 彦火明、七世孫
 建諸隅命の子
 天豊姫を
 臺與とする
 二世代前に
 日女命(宇那比姫・卑弥呼?)
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 豊玉姫命
 梁書倭国伝・北史倭国
 『正始年間(240~249年)
  卑弥呼死亡
  男王が立つが国中が服さず
  更に互いに誅殺しあう
  卑弥呼の宗女である
  台与が立ち王となる
  その後
  また男王が立つ』
 豊玉姫命
 天照大御神
 曾孫の
 山幸彦と結婚
  鸕鶿草-葺不合尊
 (うがやふきあえずのみこと)
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  天津-日高-日子-波限佐建
       鵜草-葺不合-命
 (あまつひこ ひこ なぎさたけ
       うがやふきあえず の みこと)
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  彦- 波瀲-武-鸕鶿草-葺不合
 (ひこなぎさたけうがやふきあえず)
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  盧茲草葺不合尊
 (うがやふきあえず)
 を出産した後、山幸彦のもとを去っている。
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 豊鍬入姫命説
 崇神天皇の皇女
 豊鍬入姫命
 天皇の命で
 天照大神を祭った
 初代
 斎宮が臺與
 卑弥呼
 倭迹迹日百襲媛命・・・百済を襲った女の爰の命?
 (ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)
 卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命=箸墓古墳
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 豊姫説
 神功皇后の妹
 豊姫
 肥前国風土記神名帳頭注
 「人皇卅代欽明天皇
  廾五年(564年)甲申
  肥前
  佐嘉郡
  與止姫神鎭座
  一名豐姫」
 與止日女神社の祭神
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 「卑弥呼+台与」説
 「二人の天照大神」説
 「天の岩戸伝説の
  前後の
  天照大神(アマテラス)は別人物
  卑弥呼と台与である」
 卑弥呼没年前後1月の
 皆既日食
 「岩戸隠れ」を説明
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 「二人の神功皇后」説
 『日本書紀』は
 神功皇后の在位期間を
 卑弥呼
 と
 台与
 の両方を含む年代に設定
 卑弥呼+台与=神功皇后
ーーーーー
 ・・・ボクに「記化」されたモノの「史料の資料」は
 以上も過去も「原文」の殆どは
 ・・・by 「ウィキペディアWikipedia)」・・・
 多分、これからもデス・・・仮の説で妄想が30%以上・・・
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 「日本書紀
  大友即位の事実を抹殺
  壬申の乱で死んだ皇族は
  大友皇子
  と
  山部王の二人だけ
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 『扶桑略記
 「天智天皇十年十月
  大友太政大臣が皇太子に立った
  十二月三日
  天皇が崩じ
  同五日
  大友皇太子が帝位についた」
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 天智天皇の死後の
 大友皇子即位説
 皇后
 倭姫王 即位
 倭姫王称制説
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 𠭊. 譚長說:叚如此。
 清代段玉裁《說文解字注》. 借也。
 人部假云非眞也。此叚云借也。
 然則凡云假借當作此字。
 古多借瑕爲叚。
 晉士文伯名匈字伯瑕。
 楚陽匈、鄭駟乞皆字子瑕。
 古名字相應。則瑕卽叚也。
 禮記公肩假、古今人表作公肩瑕・・・
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 ・・・???・・・