「創」成期・・Stage of creation・・・?

 2804日目・文字霊日記
 愛知県・名古屋・大須文庫⇔「大の須で観る音(音声)」
 ・・・愛知県・名古屋・「北野山真福寺宝生院」・・・
  「日本・・・・・・・日(ひ・か・ニチ・ジツ)の本(もと・ホン)
   ↓↑     ・・・日⇔曰(いはく・エツ・エチ)のホン?
             ・・・磐 公の品?・・・磐余・石川
                岩 宮の誉?・・・岩手(三ツ石の神)
                  宮城・宮崎
            曰く言い難し=簡単には言い表せない・説明できない
            いわくいいがたし
            曰=訳・理由・事情
              「曾」の部首「曰(ひらび)」=蒸し器の象形
              「最」の部首「曰(ひらび)」=頭巾=冃
     「漢字文化資料館」の「日≠曰」は漢字形象の説明不足だろう・・・?
      漢字「日=丸(九+丶・まる・円・圓)+一
          =〇+●=🔘=⊝・🔘・⊙
          =球体・太陽・☀️・天体
          =「昼+夜・明+暗」
         ・・・日を分ける形象
        「曰=穴(あな・孔・洞・管・空洞・洞穴)+一
          =口+ー=⏛・👄・ↀ・O+舌・∈+∋」
          「筒状・管状」空間の中の
          「一・丨・乚(乙)・𠃊・亅・𠄌」
          ・・・口腔内(口・くち)の中の舌(ー)
   ↓↑
   三大・・・・・・・参=參(ム+厸+𠆢+彡)
             =厽+㐱(髪の毛・両脇の毛)
               診断・診療・検診=脈を診る?
               風疹(麻疹)=三日はしか・Rubella
               症状=発熱・発疹・リンパ節腫脹・白内障
                     紅斑病症・・・水疱瘡
                  彡=傷痕・爪痕・創傷
                   「創=キズ」
   ↓↑        ↓↑  ↓↑      ↓↑
               創=倉+刂=倉の中の刀
                 ソウ
                 つくる・・creation・birth・formation
                 construction・naissance
                 creative activity
                 創成期・・Stage of creation・・・?
               倉=亽+口
                 亼+日+丿+口
                 𠆢+一+曰+丿+口
                 亼+口+一+丿+口
                 𠆢+一+曰+丿+口
                 人+一+曰+丿+口
                 ソウ
                 くら(蔵・庫)
                 にわか(俄)
                 くら・納屋・物をしまっておく所
                 あわただしい(慌・遽)・慌てる
                 蒼=ソウ・草=青・藍
                「蒼頡&鶏足」
   ↓↑        ↓↑    ↓↑
                「女媧&伏羲」
                「盤古真人・元始天王」
                 文=「象形・形象」の文字
                 字=「音声・声音」の文字
            世界観察⇔人間の認識思惟言語⇔世界理解
   ↓↑        ↓↑    ↓↑
                「放翁病過秋、 忽起作醉墨。
                 正如久蟄龍、青天飛霹靂」
                 青天の霹靂(陸游「九月四日鶏未鳴起作」)
                 字は務観・号は放翁
   ↓↑        ↓↑    ↓↑
                 商人は損していつか倉が建つ
                 路傍の乞食は躄る(膝行る・いざる)
                 白砂で罪人は膝行(いざ)る
                 いざ(卒・率)、鎌倉
                  ・・・鎌の倉⇔草を刈る鎌の倉
                  ・・・金を兼る倉
                 倉廩(ソウリン)実ちて礼節を知る
                (衣食足りて礼節を知る・管子・牧民)
   ↓↑        ↓↑    ↓↑
                 きず・・・wound・injury・cut
                 はじめる
                 きず・切りきず
                 きずつく・きずを負う・きずつける
            ・・・「カミ」は自ずからの「身体」を
                創傷、損傷することで「世界」を創造した?
   ↓↑        ↓↑    ↓↑
                 つくる・はじめる
                 新しくつくる・はじめてつくり出す
                 こらす(懲)・こらしめる
                 いましめる(誡・戒)・こりる(懲)
   ↓↑        ↓↑       ↓↑
                「瘡=できもの」
                「創=皮膚の破綻を伴う損傷」
                   創造・創生・創作
                「傷=皮膚の破綻を伴わない損傷」
                「創面=傷口=皮膚表面の損傷部分」
                「銃創、刺創」
                「創口(ソウコウ)=狭く深い創の表面」
                「褥瘡(ジョクソウ)=床擦れ(とこずれ)」
   ↓↑         ↓↑    ↓↑  ↓↑
                  創傷(trauma, wounds, burns)
             =叁・參・叄・叅=厽+㣺(心)
             =サン=sun
              撰
              纂(簒・算
                讃⇔讃岐=香川県
                蚕・杉・彡)
            太=他意・対・多以・・・
   ↓↑         (替・碓・臺・題・戴・鮾・鯛)
   観音・・・・・・・音を観(み)る
   の1つとも言われる
   観音・・・・・・・音を観(み)る
   霊場・・・・・・・例条・例序得・令状・令嬢・・「序文」
   である。
   なごや・・・・・・名古屋=なごや=名護屋=名を護る也
   七福神・・・・・・漆伏訊=うるし-ふす-たずねる
   の一である
   布袋像・・・・・・布の袋の像・・・「補綴・補訂」の蔵
   を安置」・・・・・緖、案知・・・暗示・按字・・・按針
 「大須文庫」・・・「真福寺文庫」・・・
 「大の須で観る音(音声)」・・・?
 ・・・「古事記」・・・「賢瑜」・「本居宣長」・「太安万侶稗田阿礼」・・・
 ・・・大洲・・・何処の「おほす」???

f:id:naie:20191101011625j:plain

 以下、原文は「wikipedia.org/wiki/」・・・
ーーーーー
 大洲藩(おおずはん)
 ↓↑
 伊予国
 大洲(愛媛県大洲市
 伊予郡伊予市
 などを
 領有した藩
 ↓↑・・・藩=周で、王室を護衛する諸侯を呼んだ
       国を冊封された諸侯一般その領地
       領地=藩国・蕃国
     藩=艹+潘
       艹+氵(水)+番・・・日の下の水の番
       艹+氵(水)+釆+田
       艹+氵(水)+丿+米+田
       ハン
       まがき
       まがき・垣根・・・河川、運河の堤防
                田圃の堤
   へい(塀)・おおい
   境・区域
   覆(おおう・蔽・被)・守る
   地方を治めて
   王室の守りとなった諸侯
   日本
   江戸時代
   大名が領有する土地、領民の総称を
   明治時代に「藩」とした概念・・・火事番⇔炊事番?
 ↓↑ ↓↑
   日本史
   天領、藩
   明治以降の公称
 ↓↑ ↓↑
   江戸時代に1万石以上の
   領土を保有する封建領主
   大名が支配した領域
   その支配機構を指す
   江戸時代に
  「藩」の語は・・・藩
   儒学文献上の別称
   大名領は領分
   大名に仕える者や大名領の支配組織は
   家中などと呼称された
   1868年(明治元年
   明治新政府が旧幕府領を
   天皇直轄領(天領)とし
   府・県に編成
   大名領は
   天皇の「藩」であると観念され
  「藩」は新たに
   大名領の公称として採用
   藩主の居所(居城)の所在地の地名を
  「○○藩」とし正式の
   行政区分名となった(府藩県三治制)
   1869年(明治二年)
   版籍奉還
   藩主は知藩事に改められ
   1871年(明治四年)
   廃藩置県によりさらに
   藩が県に置き換えられた
 ↓↑ ↓↑
 藩庁は大洲城
 支藩として新谷藩
 江戸時代初期
 藤堂高虎の所領
 大洲城主として
 丹羽長秀の子で
 高虎の養子の
 藤堂高吉が在城
 慶長十三年(1608年)
 高虎は
 伊勢国
 津藩に転封
 大洲は高虎預かりの地
 同年九月
 淡路国
 洲本藩より
 脇坂安治
 が5万3千石で入部
 大洲藩が立藩
 二代
 安元は
 元和三年(1617年)
 信濃国飯田藩に転封
 加藤貞泰
 伯耆国
 米子藩より6万石で入部
 ↓↑
 元和九年(1623年)
 貞泰が跡目の届け出をしないまま急死
 長男の
 泰興が
 将軍
 徳川秀忠御目見し、相続を認められ
 弟の
 泰但(直泰)は
 1万石分知の内諾を得て
 新谷藩が成立
 寛永十六年(1639年)
 までお家騒動が続き
 内分分知で決着
 ↓↑
 加藤家
 初期の大洲藩からは
 中江藤樹が出た
 大洲藩
 幕末は早くから
 勤王で藩論が一致
 慶応四年(1868年)
 鳥羽・伏見の戦い
 参陣
 坂本龍馬
 運用の
 蒸気船「いろは丸」は
 大洲藩の所有で
 海援隊に貸与されていた
 ↓↑
 明治四年(1871年)七月十四日
 廃藩置県
 旧大洲藩領を管下とする
 大洲県(6万石、現石3万476石余)が設置
 加藤家は華族に列した
 十一月十五日
 第1次府県統合
 3府72県制の実施により
 大洲県廃止
 旧宇和島県、旧吉田県、旧新谷県
 と合併し
 宇和島県が設置
 本庁・宇和島、支庁・大洲
 その後
 神山県を経て
 愛媛県編入
 ↓↑
 明治十七年(1884年
 華族令により
 大洲加藤家は子爵を授爵
 新谷藩(にいやはん)
 大洲藩支藩
 藩庁として
 新谷(大洲市内)に陣屋を設置
 ↓↑
 元和九年(1623年)
 大洲藩
 二代藩主
 加藤泰興の弟
 直泰が幕府より1万石分知の内諾を得て成立
 内紛の後
 寛永十六年(1639年)
 藩内分知で決着
 寛永十九年(1642年)
 陣屋が新谷に完成
 藩内分知は陪臣の扱いであるが
 新谷藩は幕府より
 大名と認められた唯一の例
 ↓↑
 寛永九年(1632年)
 中江藤樹は当藩に任地替えとなったが
 母への孝養で故郷の近江国へ脱藩
 ↓↑
 江戸時代後期
 肱川の氾濫、火災
 財政困窮
 一時は大洲藩が藩政を執行
 ↓↑

f:id:naie:20191101011621j:plain

 明治四年(1871年)七月十四日
 廃藩置県
 新谷県が設置
 十一月十五日
 第1次府県統合
 3府72県制の実施で
 新谷県は廃止
 宇和島県に編入
 本庁・宇和島
 支庁・大洲
 その後
 神山県を経て
 愛媛県編入
 ↓↑
 明治十七年(1884年
 新谷加藤家は子爵、華族に列した 
 ↓↑
 陣屋は麟鳳閣
 ↓↑
 御城預りと御替地
 寛永十一年(1634年)
 蒲生忠知急死
 嫡子のなかった
 伊予
 松山藩の御城預り
 大洲城
 加藤泰
 松山藩
 伊予郡
 浮穴郡37箇村(約1万3千石)と
 大洲藩領だった
 風早郡
 桑村郡57箇村の替地を老中に願い出
 寛永十二年(1635年)
 替地実現、翌年に
 上灘村から
 宮内兄弟(九右衛門、清兵衛)が入植
 「灘屋」と号し
 「灘町」(伊予郡郡中町の前身)と命名
 ↓↑
 宇陀松山城
 大洲城大洲城(おおずじょう)
 四国
 伊予国
 喜多郡
 大洲(愛媛県大洲市大洲)
 別名
 地蔵ヶ嶽城、比志城、大津城
 大洲
 伊予を南北につなぐ
 大洲街道・宇和島街道の結節点
 東には四国山脈を抜けて
 土佐国に出る街道
 西には
 大洲の外港
 八幡浜八幡浜市
 大洲は
 伊予宇都宮氏が創建した当初は
 肱川
 久米川の合流点にあたる
 地蔵ヶ岳に築城され
 地蔵ヶ岳城と呼ばれた
 ↓↑
 江戸時代初期
 藤堂高虎らによっ修築
 伊予
 大洲藩の城下町
 初めて築城
 鎌倉時代末期の守護
 伊予宇都宮氏の
 宇都宮豊房
 元徳三年/元弘元年(1331年)
 ↓↑
 豊房には子がなく
 筑後宇都宮氏の
 宇都宮貞泰の子の
 宇都宮宗泰を養子に迎えた
 伊予宇都宮氏はその後
 国人として
 二百数十年間にわたって
 南伊予を中心に支配
 永禄の末期
 毛利氏の
 伊予出兵によって降伏
 天正初年
 土佐の
 長宗我部元親
 と通じた家臣の
 大野直之によって
 大洲城を追われ
 天正十三年(1585年)
 大野直之も
 豊臣秀吉の意を受けた
 小早川隆景によって攻め滅ぼさ
 小早川隆景
 35万石で伊予に入封
 大洲城は一支城となった
 ↓↑
 その後
 戸田勝隆が城主として入った
 文禄四年(1595年)
 藤堂高虎が入城
 慶長十四年(1609年)
 淡路の
 洲本から
 脇坂安治が転封
 天守、建造物が造営
 ↓↑
 脇坂安治の時代
 「大津」
 から
 「大洲」
 に
 城名が変更
 元和三年(1617年)
 伯耆米子から
 6万石で
 加藤貞泰が入り
 加藤氏が12代に亘り
 大洲藩主として治め
 明治維新を迎えた
 ↓↑

f:id:naie:20191101011616j:plain

 いろは丸(いろはまる)
 1860年
 イギリスで建造
 伊予国
 大洲藩愛媛県大洲市
 が所有していた
 蒸気船
 蒸気機関のほか
 マスト3本を持ち帆走も可能であった
 坂本龍馬
 海援隊による運航中に
 紀州藩
 明光丸と
 衝突事故を起こした
 いろは歌(いろはうた)=仮名を重複させずに作られた
             四十七字の誦文(ずもん)
      いろはにほへと ちりぬるを
     (色 は匂 へど 散りぬるを)
      わかよたれそ つねならむ
     (我が世誰 ぞ 常 ならむ)
      うゐのおくやま けふこえて
     (有為の奥 山  今日越えて)
      あさきゆめみし ゑひもせす
     (浅 き夢 見じ 酔ひもせず)

f:id:naie:20191101011612j:plain

ーーーーー
 養賢堂(ようけんどう)
 仙台藩の藩校
 別名 明倫館
 ↓↑
 1721年(享保六年)
 遠藤文七朗守信が
 五代藩主
 伊達吉村に対して
 藩校設立の意見書を提出
 遠藤は蟄居処分
 1728年(享保十三年)
 学問は
 政教の第一根本とし
 再び意見書を提出したが、却下された
 1735年(享保二十年)
 仙台藩儒学者
 蘆野東山(芦東山・幸七郎胤保)
 学問所設立案を作成し
 建言したがいれられなかった
 この上申から約半月後に
 儒学者
 高橋玉斎
 が藩校の設立を建言、採用
 ↓↑
 1736年(元文元年)
 城下の
 北三番丁細横丁西南角
 にあった武家の旧宅を修復
 藩校である学問所設置
 東山と玉斎はともに
 講釈および読書指南役の一人となり
 玉斎は学問所主立となった
 東山は後に身分の上下に
 こだわらない学問所の改革案を提示し
 藩の重臣から反感を買い
 20年以上にわたって幽閉
 ↓↑
 七代藩主
 伊達重村
 が学問所の改革に乗り出し
 1760年(宝暦十年)
 学問所が
 北一番丁勾当台通東南角に移転
 足軽まで
 藩校への入学を許されるようになった
 平民の入学は許されなかったが
 平民には
 義塾や寺子屋での学習が奨励された
 学問所で医学書の講釈が行われ
 藩医のみならず
 町医師もこれを聴いた
 ↓↑
 1771年(明和八年)
 重村は「養賢堂」と額に書き学問所に与えた
 1772年(明和九年)
 学問所が養賢堂と称された
 ↓↑
 1780年(安永九年)
 奉行職
 芝多信憲
 の私財によって
 養賢堂の学寮と書庫が増設
 書庫には数千冊の蔵書が収められた
 17世紀後半に
 林子平
 が3度に渡って学制改革の建言
 藩はこれを採用せず
 子平は
 養賢堂とは名ばかりと批判
 18世紀に入ると
 学頭御用となった
 大槻平泉
 が藩主の命を受けて
 学制改革に乗り出した
 ↓↑
 1811年(文化八年)
 新田開発高1万2000石の
 学田が造られ
 この収入が養賢堂の運営費となった
 その後
 養賢堂周辺の敷地が召し上げられ
 養賢堂の敷地となり
 講堂などの施設が拡充した
 講堂は
 1816年(文化十三年)から建設され
 1817年(文化十四年)に完成
 医学校独自の学舎が完成
 ↓↑
 平泉が学頭を務めていた頃の養賢堂では
 学科の増設が行われ
 1811年(文化八年)
 書学、算法、礼方の3学科が増設
 算術は町人や百姓が用いる
 卑しい技と見なされており
 算法学科の設置は珍しい
 1812年(文化九年)
 兵学、槍術、剣術の学科が加わった
 平泉の次の学頭
 大槻習斎の時代
 漢学、国学、書学、算法、礼方
 兵学蘭学、洋学
 剣術、槍術、柔術、楽
 の12学科を持つに至った
 ↓↑
 入学は8歳以上
 素読試験には
 17歳までに合格せねばならないとされ
 3回の不合格で退校
 幕末の頃に
 通学生と寄宿生あわせて
 1日約1000人が学んでいた
 ↓↑
 戊辰戦争
 養賢堂は政府軍の宿舎となった
 1869年(明治二年)
 養賢堂は元の場所へ戻り
 知学局と改称
 後に名称は
 養賢堂へと再び戻った
 廃藩置県によって
 仙台県が成立すると
 養賢堂の建物は
 仙台県庁舎(宮城県庁舎)となり
 教育機関としての養賢堂
 その中の習字所を仮学校とした
 1872年(明治五年)
 学制が制定され
 養賢堂は廃止
 仙台には2校の官立中学校が設置
 養賢堂の建物は
 第二次世界大戦中の
 仙台空襲で焼失
 ↓↑
 1835年(天保六年)時の調査で
 養賢堂には1万7183冊の書物
 第二次大戦中
 愛子と芋沢の農家へ書籍の疎開が決定
 貴重とされた
 和算書などが選定
 選定された書籍の9割は
 仙台空襲で
 助かったのは
 約1800冊
 残った本は終戦
 宮城県図書館
 「養賢堂文庫」として所蔵
 養賢堂は仙台空襲で焼失
ーーーーー
 ・・・だからナニ・・・???・・・