玉葱オトコ、本末転倒・・・元司法卿、「江藤新平」残念?
2778日目・文字霊日記
・・・恩着せがましいって・・・アンタだろう・・・
・・・他人のために復讐(仕返し)・・・?
・・・自己保身のタメだろう・・・KKK・・・?
「物質存在の条件」・・・有=存=在=或・・・?
「生命の条件」・・・・?
「生物の条件」・・・・?
「人類の条件」・・・・?
「人間の条件」・・・・?
「オンナの条件」・・・?
「オトコの条件」・・・?
↓↑
宋果・・・ソウか?・・・緒口(いとぐち)はソウなんだ?
・・・宋=宀+木・・・宇宙の十(拾・足)の八(捌)
う=鵜(鸕)+記紀
鸕野讚良
果=田(かり・デン)+木
借り・傳(伝)・記紀
ソウカ(ソウクワ=総鍬?蘇鵜鋤?)・・・草加(日下)・総花?
漢幷州・・・幷=幷=干+干
異体字「并」
「竝(並)・倂(併)」
併合・併呑
ヒョウ(ヒャゥ)
ヘイ(ヘィ)
あわせる・ならぶ
刺史(シシ・地方巡回観察官→地方治所観察官)
↓↑ 前漢
武帝が紀元前106年
全国に十三州を設置し
同時に設置した監察官
州の監察官や行政長官
郡大守を監察する刺史を置いて
各地を巡回させ郡大守を指導
紀元前8年
成帝の時代に刺史は
郡大守と同等の二千石の奉給に
引き上げられ
名称も
「州-牧」と改められた
牧の行政権は
郡を越えて州管轄になり
牧は州内の各郡県の内政に
直接干渉できるようになる
地方官になった・・・
↓↑
「宋果」
字は仲乙(仲文)・・・仲(人は中)の乙(弟)
扶風郡の人
《後漢書・郭太伝》・・・郭は太の伝?
↓↑
「宋果」は
軽はずみで荒々しい性質で
他人のために
復讐(仕返し)してやるのが好きだった
↓↑
「郭太」から
義について諭され
懺悔感服し、叩頭して謝罪
三公の役所から招かれ
侍御史・幷州刺史
となって
彼の赴任先をよく治めた
《後漢書・郭太伝》
↓↑
郭 泰(カク タイ)
128年~169年
後漢代の儒者
字は林宗
太原郡
界休県の人
八顧の一人
↓↑
後漢書
編者の
范曄
↓↑・・范曄
字は蔚宗
先祖は南陽郡順陽県(河南省南陽市淅川県)
会稽郡山陰県(浙江省紹興市柯橋区)にて出生
「言以足志、文以足言。不言誰知其志。
言之無文、行而不遠(春秋左氏伝・襄公二十五年)」
↓↑ ↓↑
司馬遷は散文体
班固はそれを詩風の韻文体
「述」と称した
范曄は
「述」を
「賛」に改めた
「述」や「賛」は史書の体例となり
巻ごとに一つ書かれるようになった
事柄が多い巻は要約され
内容が空虚な巻は
誇張された
文章となってしまった
形式と内実が乖離し
詳細さと簡略さが符合していない
人の善悪や
歴史上の褒貶を知ろうとするうえで
この形式を利用する必要もない・・・
↓↑
賛=㚘+貝
夫+夫+貝
夫+二+人+貝
二+人+夫+貝
夫+一+一+人+貝
二+人+二+人+貝
一+一+人+夫+貝
二+人+一+一+人+貝
一+一+人+二+人+貝
一+一+人+一+一+人+貝
サン
たすける
たたえる
ほめる
まみえる・会見する・お目にかかる
たすける・力をそえる
みちびく・引く
すすめる
たたえる・ほめる
文体のひとつ
人をほめたたえる文章
賛辞
↓↑
が父の諱を避けて
「郭太」
「郭林宗」
と表記
↓↑
「後漢書・郭太伝」
郭太のことを
「身長八尺、容貌魁偉」と形容
「後漢書巻六十八郭符許列傳第五十八」
↓↑
危言覈論
(キゲンカクロン)
正しいと思う主張について
激しく議論を戦わせること
「危言」は自身の身が
危険な状況になることを気にかけず
自分の考えをはっきりと言うこと
「覈論」は激しく論じること
出典『後漢書(郭太伝)』
『後漢書・郭太伝』に
「身長八尺、容貌魁偉なり」
ーーーーー
魁=北斗七星の第1星
魁偉(クワイヰ)
「後漢書・郭太伝・容貌魁偉」
顔やからだが
人並はずれて大きく立派なさま
魁岸(カイガン)
↓↑
かい(魁)
かしら・頭領
さきがけ・先鞭
北斗七星の第1星
↓↑
かい‐い(魁偉)ヰ
「後漢書・郭太伝・容貌魁偉」
顔や身体が人並はずれて大きく立派なさま
↓↑
かい‐がん(魁岸)
容貌の偉大なさま
↓↑
かい‐けつ(魁傑)
容貌・才幹のすぐれていること・すぐれた人物
かい‐ご(魁梧)
かい‐ご(魁梧)
体が大きくて立派なこと・魁偉
かい‐しゅ(魁首)
かい‐しゅ(魁首)
かしら・長・首魁
かい‐すい(魁帥)
かい‐すい(魁帥)
賊徒などの長
かいすいえん‐やき(魁翠園焼)
御庭焼の一
嘉永(1848~1854)の頃
美濃
高須藩主
松平義建が
江戸角筈(つのはず)の下屋敷
魁翠園で焼かせた陶磁器・角筈御庭焼
↓↑
かい‐せい(魁星)
かい‐せい(魁星)
北斗七星の第1星=北斗七星(Big Dipper、Plough)
↓↑ おおぐま座の腰から尻尾を構成する
7つの明るい恒星で象られる星列
北斗・北斗星・七つの星・七曜の星
柄杓の形をして
「斗」の名が付けられている
日本では
四三の星・七剣星
3等星であるδ星を除く
6星は全て2等星
柄杓の器の部分を作る
天枢、天璇、天璣、天権
4つを
魁(カイ)
柄の部分を作る
玉衡、開陽、揺光
3つを
標、杓(ヒョウ)
あわせて
「斗」と一字でよぶことも
神祇伯家行事傳に
北斗七星の名前とし
↓↑ 「魁𩲃𩵄䰢魓𩳐魒」
魁・・・α星(天魁星)
二十八宿の
奎星(ケイセイ)と混同され
文運をつかさどるとされた
科挙の試験で
進士首席合格者・状元・魁選
さき‐がけ(先駆け・先駈け・魁)
さき‐がけ(先駆け・先駈け・魁)
衆に先立って敵中に攻め入ること
物事のはじめとなること
特に、同類の中で先になること
さき‐が・ける
(先駆ける・先駈ける・魁ける)
他に先立って進む
他よりも先に物事をする
ひと‐ごのかみ(魁帥・首長)
(人ひと兄このかみの意)
上代における一群の人の長
首魁〈神武紀訓注〉
魁=カイ〈クヮイ〉(漢)
さきがけ
(名)いさお・つとむ
さきがけ・まっさき・第一番目
かしら
首領・首魁・巨魁・渠魁
花魁(おいらん)
大きくてすぐれている
魁偉・魁傑
ーーーーー
郭泰・・・郭=廓・曲輪・・・郭務悰・・・ダレ?
(by Wikipedia)
郭泰(カクタイ・128年~169年)
後漢代の儒者
字は林宗
太原郡
界休県の人
名儒を数え上げた八顧の一人
↓↑
「後漢書」の
編者の
范曄(ハンヨウ・398年~445年)
魏晋南北朝時代の
南朝宋の政治家・文学者・歴史家
『後漢書』の作者
字は蔚宗
先祖は南陽郡順陽県
(河南省南陽市淅川県)の出身
会稽郡山陰県
(浙江省紹興市柯橋区)出生
↓↑
が父の諱を避けて
「郭太・郭林宗」・・・カクタイ・・・化句臨想?
と表記
↓↑
范曄・・・范=艹+氾
↓↑ 艹+氵+㔾
ハン
いがた
かた
のり
草の名
虫の名・蜂
鋳型・鋳造の型
のり・法則・規範
曄=日+華
異体字「曅」
ヨウ
あきらか
かがやく
さかん
かがやく・あきらか・ひかりかがやく
↓↑ さかんなさま
范曄(ハンヨウ・398年~445年)
士族生まれ
祖先の
范晷は
西晋の雍州刺史
曾祖父の
范汪は
東晋の安北将軍・徐兗二州刺史・武興県侯
祖父の
范寧は
臨淮郡太守・豫章郡太守
父の
范泰は
宋の侍中・光禄大夫
死後は
車騎将軍を追贈
范汪は
「博覧強記にして、道理に通ず」
『尚書大事』20巻・『范東陽方』105巻
などを著
范寧は
『春秋穀梁伝集解』12巻を著し
范泰も『古今善言』24巻を著した
范曄には
兄の
范昂、范暠、范晏
末弟の
范広淵
がいた
↓↑
范曄(ハンヨウ・398年~445年)
無神論者
『後漢書』の中で
人に諂う仏を猛烈に非難
神の不滅
因果応報
の説法を否定
仏教を信じる後漢の
桓帝を風刺
天命論にも反対
「天道の性命、聖人の難言之
況して乃ち憶測を僅かに隠す
猖狂無妄之福
宗親の汚滅を
觖一切の功を以て哉!」
『後漢書・張衡伝』で
大量に、古代の予言書を引用して
史実や論証を述べることに
張衡が反対した話を収録
陰陽の禁忌についての
誤った論を論破・・・
↓↑
屈伯彦
の学問を学び、三年でこれを修め
墳籍(古代聖賢の手による経籍)に通じ
談論を善くし、その発音は美しかった
洛陽に遊学
賈彪
と共に
太学の冠とされた
当時河南尹だった
李膺は・・・膺=䧹+月・・・贋・雁(鴈)・鷹
广+倠+月
广+亻+隹+月
郭泰を大いに奇とし
親善を結んだ
郭泰の名は洛陽に拡散
司徒の
黄瓊が招聘し
太常の
趙典が
有道に推挙したが、応じなかった
党錮の禍で名士達が被害を受けたが
郭泰
と
袁閎だけが禍を免れた
↓↑
建寧元年(168年)
陳蕃
竇武
が宦官との抗争に敗れて害され
建寧二年(169年)春、家で死去・享年42
↓↑
斗と筲
容積を量る器
小さな単位を測る程度の小さな人間
ーーーーー
郭-皇后(カク-コウゴウ)
?~景元四年(263年)
三国時代の
魏の
曹叡(明帝)の
二番目の皇后
諡号は明元皇后
涼州西平郡の出身
父は郭満
母は杜氏
叔父は郭立
従弟は郭徳・郭建
↓↑
一ヶ月後
曹叡は死去
曹芳(斉王)は即位後
郭氏を尊んで
皇太后とし
永寧宮と称した
↓↑
郭皇后
郭聖通
後漢の
光武帝の最初の皇后
文徳皇后郭氏
魏の文帝
曹丕の皇后・明元皇后郭氏
魏の明帝曹叡の皇后・懿安郭皇后
唐の憲宗の皇后・章穆皇后
北宋の真宗の皇后・郭皇后 (宋仁宗)
↓↑
郭皇后
河右の豪族の娘
西平郡において叛乱が起こり
連座して後宮に没収
黄初七年(226年)
曹叡の即位後
寵愛され夫人(妃の位の一、皇后に次ぐ)
景初二年(238年)十二月
曹叡の病が篤くなると
皇后に冊立
一ヶ月後曹叡は死去
曹芳(斉王)は即位後
郭氏を尊んで
皇太后とし、永寧宮と称した
↓↑
少帝
曹芳の時代
当初は
曹爽
司馬懿
やその息子たちが実権を握り
皇太后自身には権限がなかった・・・
正始十年(249年)
司馬懿が
曹爽にクーデターを起こし
曹爽・曹芳
らが墓参に出かけた留守に
皇太后の支持を取り付け
正当化・・・
↓↑
毌丘倹
鍾会
など反逆者たちは
皇太后の命と称して叛乱を起こした
司馬師が
曹芳を廃したときも
名目は皇太后の令を理由としていた・・・
↓↑
曹芳の廃位後
後継者を決定するとき
司馬師が
曹據を推したのに対し
皇太后は
曹髦を推した
皇太后と司馬師は対立したが
皇太后の主張が通り
曹髦(高貴郷侯)が即位・・・
↓↑
諸葛誕の反乱
皇太后と曹髦らが親征する形で
司馬昭に奉戴され反乱を鎮圧
曹髦は、専権を極める
司馬昭を排除しようとして失敗
司馬昭の側近である
賈充の部下
成済に殺された
司馬昭は皇太后の令と称し
「帝が皇太后を害しようとしたため殺害された」
と理由を付け
司馬昭が
曹髦
を庶民の格式で葬ろうとすると
司馬孚は反対し
皇太后に上奏し
王の格式で葬る許可を取り付け行わせた
景元四年(263年)十二月に死去
景元五年(264年)二月
曹叡の高平陵の西に埋葬された
↓↑
拳拳服膺
人から教わった事や言葉などを
決して忘れることなく
常に心に留めて大切にすること
「拳拳」は
丁寧に両手で捧げるように持つこと
「服膺」は
胸に付けるということから
心に留めるという意
出典『中庸(八)』
銘肌鏤骨(メイキルコツ)
銘心鏤骨(メイシンルコツ)
ーーーーー
・・・???・・・メイキルコツ(明記留兀)・・・兀?
兀⇔π(パイ・pie)・・・π
円周率=円の周長の、直径に対する比率=π=3.14159 26535・・・
(π=ペリメトロス・ペリペレイア)
半径 R の円周の長さ
半径 r の円板の面積=πr²
↓↑
アルキメデスは
正96角形を用いて
半径 r の球の体積=4/3πr³
↓↑
この球の表面積=4πr²
その球の大円による切り口の面積の4倍
祖沖之(五世紀、中国)
小数点以下第6位まで弾き出した
・・・無駄な「あんき」・・・嫌いだけれど・・・
・・・思考、構成と判断の原材料・・・
あんき=安藝=安徽=暗鬼=安危=諳記=暗記・・・闇に記すって?