島津 義弘、ルイス・フロイス・・・「秀吉多指六本」と記録?
2776日目・文字霊日記
???⇔惺+窩⇔こじき⇔姜+沆⇔隠晦曲折・・・贋作
↓↑
曖昧糢糊(アイマイモコ)・・・贋(雁貝)+作(イ乍)
曖=日+愛 贗(鴈・かり・ガン)
日+爫+冖+心+夂
アイ
おおう
かげる
くらい
・・・どうして「日+愛」が
「くらい=暗い・昏い・晦い・儚い」
になるんだか?
ぼんやりくらい
はっきりしない
おおう・かくす・さえぎる
↓↑
昧=日+未・・・ 未=ミ・ビ
↓↑ ↓↑ いまだ
ひつじ(未)
まだ
十二支の八番目
方位は南南西
時刻は午後二時、前後の二時間
動物は羊(ひつじ)
ヒツジ(羊、綿羊、学名 Ovis aries)
ウシ科ヤギ亜科の
鯨偶蹄目
角をもち
食肉、羊毛のために家畜化されている
1875年(明治八年)
外国人ル・ジャンドルが
軍用毛布のため羊毛の自給の必要性を説き
大久保利通によって下総に牧羊場が新設
↓↑ ↓↑ ↓↑
「いまだ~ず」と読み
「まだ~ない・まだ~していない」の意
「いまだし」と読み
「まだである・まだです」の意
「いまだしや」と読み
↓↑ ↓↑ 「まだであるか」の意
昧=日+‡+八
日+一+木
日+十+十+八
マイ
バイ
くらい
くらい・光がわずかでくらい
くらい・おろか・物事を知らない
戯作三昧
無知蒙昧
無知愚昧
↓↑
糢=米+莫
米+艹+旲
米+艹+日+大
ボ
モ
かた
のっとる
模糊(もこ)=あいまいでぼんやりしたさま
↓↑
糊=䊀+月
米+胡
米+古+月
米+古+月
米+十+口+月
米+十+口+月
↓↑
藤原惺窩(ふじわら せいか)・・・
↓↑ 惺=忄+星・・・心の星・・・?
・・・立身の辨の保志・・・?
忄+日+生
セイ
さとる
しずか
さとる・はっきりとわかる
しずか・心が落ち着いている
窩=穴+咼
穴+冎+口
宀+八+咼
宀+八+冎+口
カ
あな
いわや
かくす
かくまう
むろ
あな・いわや・むろ
くぼみ
眼窩(ガンカ)
・・・「頑・顔・岩・岸・丸・元・雁・願・含・ガン」化
雁(がん・かり・異字は鴈)
すみか・身をかくすところ
↓↑ 物をかくす・かくまう
↓↑ 贋作=にせもの=贋物
戦国時代から江戸時代前期にかけての儒学者
家名の冷泉を名乗らず
中国式に本姓の
藤原および籐(とう)を公称
↓↑
生誕 永禄4年1月24日(1561年2月8日)
死没 元和5年9月12日(1619年10月19日)
大運1616年9月(55歳)~乙未・比肩
庚申(戊壬庚)正官・印綬 胎⇔己未
己丑(癸辛己)偏財・偏官 衰⇔甲戌
乙酉(庚 辛) ・正官 絶⇔壬辰
午未空亡
壬午(丙 丁)印綬・傷官長生⇔丙午
↓↑
改名 粛(諱)
別名 惺窩・北肉山人・柴立子
広胖窩(号)
歛 夫(字)
↓↑
姜沆(きょうこう・カン・ハン・Gang Hang)
1567年6月23日(明暦:隆慶元年5月17日)
~
1618年6月27日(明暦:万暦46年5月6日)
大運1615年12月庚子劫財
丁卯(甲 乙)偏官・偏財 絶⇔戊午
乙巳(戊庚丙)偏財・正官 死⇔戊午
辛未(丁乙己) ・偏印 衰⇔癸巳
戌亥空亡
甲午(丙 丁)正財・偏官 病⇔戊午
↓↑
朝鮮李氏王朝中期の官人
字は
太初(テチョ)・・・太(おほの)初(はじめ)?
号は
睡隠(スウン)・・・睡(ねむる・いねむり)隠(かくす)
証拠隠滅
1593年
朝鮮王朝の文科に合格
1597年
慶長の役(丁酉再乱)
刑曹佐郎の要職
全羅道で
明の将軍
楊元への食糧輸送任務に従事
日本軍の進撃によって
全羅道戦線が崩壊し
一族で避難中に
鳴梁海戦後に
黄海沿岸へ進出していた
藤堂高虎
の水軍により捕虜とされ
海路日本へ移送された
↓↑
日本で
伊予国大洲に拘留
のち伏見に移送
藤原惺窩
と交流
約3年にわたる
俘虜生活の見聞(日本制度や情勢)は
『看羊録』にまとめられた
↓↑
1600年(慶長五年)四月
伏見を立ち
対馬を経由して
朝鮮に帰国
再び仕官はしなかった
↓↑
『看羊録』
日本で見聞したこと
日本の内情や国土の特徴
諸大名の情勢などを細かく記録
朝鮮王朝に対する
提言集的な側面が強い・・・?
↓↑
『看羊録(かんようろく)』
日本の内情を秘密裏に
本国政府に報告した文集
1598年
豊臣秀吉の
朝鮮出兵時に捕虜
京都伏見に幽閉
京都相国寺の
藤原惺窩
との対話や
京都方広寺の
耳塚
のことなどを記録にとどめ
1600年
帰国した姜沆は
みずからを罪人として
この文集を
「巾車(きんしや)録」
・・・巾(はば・頭巾)の
車(くるま)の
録(金+录・金+彐+氺)?
と題したが
門人が
漢の
蘇武・・・蘇(よみがえる)の武(たける)
↓↑ 蘇武(ソブ)
紀元前140年頃?~紀元前60年
前漢時代の人・字は子卿
父は衛尉の蘇建
子は蘇元・蘇通国
兄は蘇嘉
杜陵(陝西省)の人
字は子卿(しけい)
武帝に仕え(前100)中郎将として
匈奴に使節として行き
19年間抑留
その間
降伏をせまられたが節義をまげず
拒否し、
片足を斬られ
北海(バイカル湖)のほとりの
荒野に追放されて
羊を飼わされ・・・「看羊録」
雁(がん)の足に
便りを結んで故国に送り
苦難の抑留生活
↓↑ ↓↑
昭帝が即位し
匈奴との講和が成立し
帰国
↓↑ 典属国・・・
↓↑ に拝せられた
↓↑ 典属国=秦、前漢の官職名
降伏した周辺異民族を掌る
属官には
九訳令がいた
武帝元狩三年
匈奴の
昆邪王が降伏すると
属国を増設
都尉、丞、候、千人の官を置いた
成帝河平元年
大鴻臚に統合
↓↑ 典属国廃止・・・
の節義(セツギ)・・・説戯(戲・魏・記・紀)?
になぞらえて
「看羊(カンヨウ)録」・・・観葉・官用・韓用?
と名付け後世に伝えた
↓↑
見聞中の様々な情動を
漢詩にしている
「日本はどんな才能
どんな物であっても必ず
天下一を掲げる
壁塗り
屋根ふき
などにも天下一の肩書が付けば
多額の金銀が投じられるのは普通だ」
と綴った・・・
↓↑
「看羊録」
1597年
「慶長の役」の際に捕らわれた
李氏朝鮮の官人
姜沆(カンコウ)
によって書かれた
大洲
・・・愛媛県の大洲市
愛媛県の南予地方に位置
伊予の小京都
と呼ばれ
肱(ひじ)川(かわ・セン)・・・比字化話?
の流域にある
大洲城を中心の城下町
北緯33度30分22.6秒
東経132度32分40.3秒
大洲(おおず)地方
縄文、弥生時代の
田合(たごう)遺跡
巨石が崇拝される
高山メンヒル
市内50数箇所に
巨石や巨石群が構築
大化の改新(645年後)
伊予国宇和郡に属し
866年
喜多郡となった
矢野郷・久米郷・新屋(にいや)郷
(倭名類聚抄)
大洲肱川三大鵜飼・・・鵜飼⇔鸕飼?
・・・鸕野讃良=持統天皇
讃岐・愛媛県=伊豫
長良川鵜飼(岐阜県岐阜市)
肱川鵜飼(愛媛県大州市)
三隈川(大分県日田市)
源平の合戦
1185年
河野通信(みちのぶ)が
比志城(ひじじょう)に立てこもり
平氏を退けた(予章記)
鎌倉時代
伊予国守護
宇都宮豊房が
1330年着任から240年近く支配
大津地蔵嶽(じぞうがだけ)に城を築いた
後
大野直之、小早川隆景、戸田勝隆
らが城主となった
1595年
豊臣秀吉の重臣
藤堂高虎が
板島(宇和島)から
大津(大洲)に入り
1609年
淡路国州本城から
脇坂安治に引き継ぐ・・・
1617年
加藤貞泰(さだやす)が
米子から大津へ転封
明治維新まで12代、250年余り
大洲は加藤氏の治政
↓↑ ↓↑
日本の陽明学の祖
儒学者
中江藤樹も十歳のとき
加藤貞泰とともに大洲に移り
二十七歳まで大洲で暮らし
門人たちに「大学」を教えた・・・
勤王藩として
慶応四年(1868年)
鳥羽・伏見の戦い
に参陣
坂本龍馬が運用した
蒸気船
いろは丸
大洲藩の所有で
海援隊に貸与していた・・・
↓↑ ↓↑
大洲藩出身の
武田斐三郎
江戸時代末期の学者
北海道函館市の
「五稜郭」の設計を担当
洋式兵術の指導的役割を担った
↓↑ ↓↑ ↓↑
「大須=大洲」文庫・・・大須観音
岐阜⇒名古屋
で監禁
大坂、伏見へと移され
抑留生活を続け
見聞した
日本の情勢や風俗についての詳細な記録
↓↑
姜沆(カンコウ・キョコウ)
韓国読みは「カンハン」
(1567~1618)
↓↑
李氏朝鮮
儒家の生まれ
朝鮮の
科挙試験に合格
赴任先で
日本軍に追い詰められ
李舜臣の軍勢に合流する予定のところを
藤堂高虎
に捕らわれ捕虜となった
↓↑
姜沆(カンコウ)
三十歳
身なりの良さから日本に連行
その際に
彼の子供
「竜」
と
「愛生」
は海に投げ捨てられ溺死させられた
↓↑
連行された
大洲(愛媛県大洲市)
に着くと
攫われた朝鮮人が千余人
↓↑
日本の僧侶が筆談によって素性を訊くと
日本ではまだ知られていない
朱子学者であることが分かり
藤原惺窩
(江戸朱子学の祖・林羅山の師
藤原定家の12代目の子孫)
らが、彼の教えを請い
江戸幕府の思想的となった・・・
↓↑
姜沆(カンコウ)
自分の節度を曲げず
日本語の勉強も一切しなかった
1600年
釈放され朝鮮に帰国
↓↑
「看羊録」
秀吉に対する罵詈雑言が並べ立てられ
中国の故事が連発
日本人に対する憎悪と蔑視の本・・・
↓↑
日本は「倭」
日本人は「倭奴(ウェノム)」
秀吉は「賊魁」
日本の地理、歴史、文化、信仰
各大名の出自、食邑、性格
等の記録
後
徳川吉宗のころの
朝鮮通信使が
「看羊録」
が江戸の町で売られているのを見て
「賊の偵察に行った本を
賊に読まれては意味がないではないか」・・・
・・・贋作・・・
↓↑
「賊魁秀吉は
尾張州中村郷の人である
嘉靖丙申年に生まれた
容貌が醜く
身体も短小
容貌が猿のようであった・・・
生まれたとき
右手が六本指であった
成長するに及び
『人はみな五本指である
六本の指に何の必要があろう』
と言って、刀で斬り落としてしまった」・・・?
ルイス・フロイスも
「秀吉多指症説」と記録・・・
↓↑
「秀吉多指症説」は
島津 義弘(しまづ よしひろ)の記録にも・・・
天文四年七月二十三日(1535年8月21日)
島津貴久の次男
戦国大名
島津義久の弟
島津氏の第十七代当主
島津氏十八代当主
島津忠恒(家久)の父
剃髪して
「惟新斎」と号し
「惟新公(いしんこう)」と敬称で呼ばれた
戦国(安土桃山)時代の屈指の猛将で
「鬼島津」とも・・・
↓↑
姜沆(カンコウ)
1600年二月
釈放され、朝鮮に帰国
「関ヶ原」以前
姜沆が朝鮮に帰国する直前
藤原惺窩が
小早川秀明と対面し
「内府(家康)は、やがて明年には再挙し
朝鮮を侵そうとしている」
と聞いて
諸大名との対立を回避し
和議を結んだ場合
大名たちの兵力を削ぐ目的で
朝鮮に兵を送る可能性があると指摘・・・
ーー↓↑ーー
中国の姜(キョウ)姓
「神農氏の母が
姜水に住んでいたので
姜氏が発生」
平民と峻別するため
帝の神農は姜
舜は姚
のような血族の祖を示す標識として名のった
↓↑
朝鮮の姜姜(カン)
姜(カン)
チンギス汗
韓国の韓と同じ
「上に立つ、尊大な」の原義
↓↑
「姜姓は中国で最も古く
祖先は中国古代の神話によれば
有益な薬草を試し調べ
農耕を庶民に教えた神農
あるいは
漢民族共通の祖と言われる
黄帝
と争って敗れた
非漢民族の代表者
炎帝
発祥
中国のはるか西北方の
天山北路
チベット系の羌(キョウ)族」
「中国の先史社会にあって
姜姓
姫姓
は最も有力な姓で
姜姓の始祖である炎帝は
姜水(岐水)の水源にある
高い山(陜西省岐山)に天上から降臨し
その子孫は下流の平原に出て
農業を営むようになった」とあり。
↓↑
『中国姓氏考 そのルーツをさぐる』
女性始祖の出産した場所によって得た姓
「姚」
「姜」
「姜、神農は姜水に居り、
因りて以て姓となす(『説文解字』)」
「炎帝の母
女登(ジョトウ)華陽に遊び
陽に感じて
炎帝を
姜水に生む(『帝王世紀』)」
↓↑
『中国姓氏事典(姜(キョウ))』
「上古
炎帝神農氏が
姜水(岐水=陜西省岐山県西部に源発)
のほとりで長じたためこの姓が生まれた
周代
斉に姜姓を名乗るものがいた」
「姓氏起源分類一覧」の
「帝王あるいは諸侯の領地名
又はそれと関連する
邑名、河川名、山名等から転用したもの」
に
「姜」あり
ーーーーー
・・・???・・・姜=羊+女・・・
羊=ひつじ=未・・・日辻・燈辻・・・
街灯問題?・・・・
「チョ・グク」・・・父為娘隠・・・