それ自体が完璧な破壊要因の完璧部分(パーツ)?
2852日目・文字霊日記
・・・「文」は時代を超えて裏切る・・・?
コトバの意味をコトバで説明したらコトバを理解出来るのか・・・?
・・・語幹と語感ってナニ・・・
五感(視・聴・嗅・味・触)で感じられないモノ
(目・耳・鼻・舌・皮膚)
五感(視・聴・嗅・味・触)
触覚
皮膚感覚
触・圧覚
温覚
冷覚
振動感覚
位置感覚
運動感覚
平衡感覚
五感官・仏教語で「五根」
で
対象認識、思惟出来ないモノ
実体(存在)の無いモノには
「概念規定」は出来ない
脳ミソの中で
空想、想像、妄想上でイメージするモノは
既存、既知のコトバで比喩的に
「何なにのようなモノ」と類似、近似性で
その実態的、動態的な理解をする・・・
人類が脳内で得た記憶(記憶)手段
「道具=言語・記号」と
自らの身体機能能力
媒介情報伝達機能の
「末端神経⇔脳機能(思考・是非判断)⇔神経⇔実行機能」
で
それらの認識対象の拡大性、微小、最小性を
科学機器を媒介認識にしても
諸関係性の
完璧な
理解、説明を出来るモノはない・・・?
しかも
誤感・誤機能・誤作用・・・が、多い・・・誤説く・誤解く?
人間の諸対象の「完全性」なる諸認識、思惟は
既知存在の「比較」でしかありえず
「自然自体」は「天然で完璧」なのだ・・・
「人工構造」は人造であり
「自然形態」は神造(天然)である・・・?
・・・人間も「自然=天然=宇宙」の部分なのだが・・・
・・・それ自体が完璧な破壊要因の完璧部分(パーツ)?
↓↑
「歴史=歴+史」
歴=厂+林+止=歷=厂+禾禾+止・・・足=口+龰(疋)
厂+林+止・・・禁=林+示=木+木+二+亅+八
厂+木+木+丄+卜
史=記録文
↓↑ ↓↑
歴=厂(崖)+林+止
歷=厤+止
=厂(崖)+秝(穀物の穂)+止
異体字「歷・曆・歴」
崖に生える秝を止める
日々占う(育てる)人
止・之・歩・足・走・奔
止=ト(卜占)+丄(下)
シ・とまる・とめる・とどまる
象形「趾(あしあと)
甲骨文字の左が右足の足跡
右が左足の足跡
止+少=歩・・・歩数が少ない
土+龰=走・・・「十一・足元」の卜占の人
異体字「𧺆・𡗱・㞫・𣥕・赱・⾛」
疋=⺂+卜+人
ソ
疋=ソ
楚=いばら・しもと・すわえ
むち
にんじんぼく
クマツヅラ科の落葉低木
いばら・とげのある小木
刑罰に用いる「むち=扑」
戦国時代の七雄の一国
五代十国時代の国
すわえ・まっすぐに伸びた小枝
しもと・刑罰用の「むち=扑」
礎=基礎・いしずえ
家屋の柱の下の土台石
疏=疋+㐬
乛+龰+亠+厶+川
乛+止+亠+厶+川
あらい
うとい=疎
親しくない
うとんじる
おろそか=疎
おおまか・まばら=疎
通ずる=疎通
分かつ=疎
除く=疎
箇条書きにする
ときあかす
蔬=な・あおもの・野菜の総称
梳=カミを梳く
↓↑ ↓↑
走⇔疋(ひき・ショ・ソ)
足⇔疋=匹(ひき)・動物を数詞
布の長さの単位・二反
金銭の単位・十文
口⇔⺂=横にした引掛け棒?
國+⺂=國を牽く・くにびき
走=土+卜+人
↓↑ ↓↑
疋+α
胥=疋+月=あい・みる・共に・扶ける
塩辛=蟹(かに)の醢(かい)
疍=蛋民(蜑民・疍民・タン民)
華南の広東省、福建省
広西チワン族自治区
海南省、香港、澳門の
沿岸や河川の水上生活者
偦=亻+胥=胥
琁=璇=瓊=璿=北斗第二星名
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
邇邇芸命は
↓↑ ↓↑
木花開耶姫
(鹿葦津姫
木花之佐久夜毘売)
を妻とし
火照命(火明命)
火須勢理命
火遠理命
の三柱の子を産ませた
火遠理命の孫=神武天皇(磐余)
旋(斡旋・旋盤)
蛋(蛋白)
婿(むこ)=女+疋+肉
疎=疎外・疎遠
↓↑ ↓↑
正=一+止
一+卜+丄
歩=止+少
一+卜+丄+小+ノ
一+卜+丄+亅+八+ノ
↓↑ ↓↑
走⇔赱=土+丷+人
辶(辵)
↓↑ ↓↑
歴=厂+林+止(龰)
ある地点・時点・立場などを
順次に通っていく
事実、事象の
経過・過程・プロセス
の記録
↓↑ ↓↑
歴戦・歴程・歴任・歴年・歴訪
歴遊・巡歴・遍歴
歴仕・歴世・歴代・歴朝
↓↑ ↓↑
経てきた跡の記録
歴史・閲歴・学歴・経歴・職歴
戦歴・前歴・病歴・来歴・履歴
略歴
↓↑ ↓↑
はっきりと区別されるさま
歴然・歴歴
↓↑ ↓↑
名のり
つね・ふる・ゆき
↓↑ ↓↑
歴(れっき)とした
れき=歴=履歴
名詞の下に付け
そのことの
経験歴の記録
渡航歴・逮捕歴・~歴~年
↓↑ ↓↑
歴=れっき
=れっきとした
身分や家柄
明白であるさま
はっきりとしているさま・・・?
↓↑
後漢の語幹・・・後漢書の五巻?
↓↑
「殤帝隆・第五巻」
「殤帝=中国の皇帝に贈られた諡号
第四代皇帝
和帝・・・諱は劉肇
↓↑ 章帝の子(四男)
生母は梁貴人
平原
懐王 劉勝の
↓↑ 殤帝の父
の子供
元興元年(105年・乙巳年)12月
第四代皇帝 和帝 死亡
↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑
645年=乙巳=105年・・・・
干 支=乙巳(ヰッㇱ)=カンシ・・・逸史(一志)
同 干 支 ィッㇱ(一糸)
ドウカンシ
同 環 視
同 冠 詞
同 漢 詩
同 看 視
同 韓 子
洞 監 視
銅 鉗 子
銅 管 子
日本
皇極天皇四年=大化元年(645年)
皇紀1305年
中国
唐 貞観十九年
朝鮮
新羅 仁平十二年
↓↑
大化の改新
7月10日(皇極天皇四年六月十二日)
中大兄皇子・中臣鎌足
ら
蘇我入鹿
を宮中で暗殺(乙巳の変)
↓↑
乙┏巳┓ (戊庚丙)正官・比肩 建禄
丁┏癸┏未┫丙(丁乙己)正財・印綬 衰
丙┗戊┗申┃ (戊壬庚) ・比肩 病
戊┗午┛ (丙 丁)比肩・偏印 帝旺
寅卯空亡
干合化火挌
↓↑
乙 巳┓ (戊庚丙)印綬・比肩 建禄
丁┏未┫丙(丁乙己)劫財・比肩 衰
丙 申┃ (戊壬庚) ・比肩 病
戊┗午┛ (丙 丁)食神・比肩 帝旺
↓↑
7月11日()
(皇極天皇四年六月十三日)
蘇我蝦夷が自殺
↓↑
7月12日()
(皇極天皇四年六月十四日)
皇極天皇が退位
孝徳天皇が即位
↓↑
7月17日()
(皇極天皇四年六月十九日)
日本で初めての元号を
「大化」と定める
↓↑
8月()
東国に国司を任命
戸籍の作成
鐘匱の制
男女良賤の法
を制定
↓↑
10月7日(大化元年九月十二日)
古人大兄皇子を殺害
人口調査実施
↓↑
12月
孝徳天皇
難波
長柄
豊碕宮
に遷都
↓↑
中国後漢
元興元年(105年)12月
第四代皇帝 和帝 死亡
↓↑
「第五代皇帝
殤帝=和帝の子供
元興元年(105年)12月
第四代皇帝 和帝 死亡
干支 乙巳年
日本
景行天皇 三十五年
皇紀765年
中国
後漢 永元十七年・元興元年
蔡倫が
製紙法を改良
朝鮮
高句 麗太祖王53年
新羅 婆娑王26年
百済 己婁王29年
↓↑ ↓↑
延平元年(106年)八月辛亥
干支 丙午
日本
景行天皇 三十六年
皇紀766年
中国
後漢 延平元年
朝鮮
高句麗 太祖王 五十四年
新羅 婆娑王 二十七年
百済 己婁王 三十 年
↓↑ ↓↑
第2次ダキア戦争
トラヤヌス率いるローマ軍が
虎 也奴州(諏・素)?・・・白=しろ=素
デケバルス率いる
出懸場留州?
化
ダキア軍を撃破
拿記蛙(かえる・ア)?
ダキア全域をローマの属州とした
ローマ帝国
ナバタイ
名備多意?
アラビア
安良備倦?
を属州化
↓↑ ↓↑
元興元年(105年・乙巳年)12月
元(勃興・興行・興国)願念?
和帝 死没後
殤帝隆
即位 生後100日余り
翌
延平元年(106年・丙午)八月(辛亥)、病死
「殤」は早死にを意味する字
幼くして即位させられ
夭死した皇帝に付けられた
後漢の孝殤皇帝 (劉隆・在位106年)
↓↑ ↓↑
705年
干支=乙巳
日本
慶雲二年
皇紀1365年
中国
唐=神龍元年
誕生した人物
安禄山・大燕国皇帝(~757年)
王忠嗣・唐の武将(~749年)
不空金剛(~774年)
死去した人物
6月2日(慶雲二年五月八日)
忍壁皇子、天武天皇皇子(未詳)
12月16日(神龍元年十一月二十六日)
武則天(則天武后・623年?~)
アブドゥルマリク
ウマイヤ朝
第5代カリフ(647年~)
↓↑ ↓↑
唐の
殤皇帝 (李重茂・在位710年)
・・・木の子が重なって茂る
・・・鬼の子が重なって茂る
・・・茸=きのこ=菌・・・
唐王朝
第七代皇帝
在位期間 710年7月8日~7月25日
諱 重茂
諡 殤皇帝
証聖元年
(695年)
~
開元二年七月二十二日
(714年9月5日)
父 中宗
継母 韋皇后
后妃 陸皇后
年号 唐隆(710年)
中宗の末子
北海王から
温王
に転封
↓↑ ↓↑
710年
父の中宗が
継母の韋皇后
異母姉の安楽公主
に毒殺され
韋后によって皇位に就けられ
殤帝は傀儡
1ヶ月後
叔母の
太平公主
と
従兄の
李隆基(玄宗)
の手により
韋后母娘、一族は殺害
従兄の
李隆基(玄宗)よって
その父親で
叔父の
睿宗
に譲位させられた
↓↑ ↓↑
皇位を廃され
李重茂は
温王に戻され
714年に死去
死因は不明・・・日本に逃亡、帰化?
↓↑ ↓↑
714年
干支 甲寅(コウイン)年
日本
和銅七年
皇紀1374年
中国
唐 開元二年
↓↑ ↓↑
8月9日
(和銅七年六月二十五日)
首皇子(聖武天皇)立太子
球美(久米島)
信覚(石垣島)
から来貢・・・???・・・
↓↑ ↓↑
誕生人物
賢憬
法相宗の僧(~793年)
ピピン3世
カロリング朝
フランク王国国王(~768年)
藤原永手
正一位左大臣(~771年)
↓↑ ↓↑
死去人物
1月20日?
フィリピコス・バルダネス
東ローマ帝国の皇帝(未詳~)
6月21日(和銅七年五月一日)
大伴安麻呂(未詳~)
12月16日
ピピン2世
フランク王国の宮宰(635年/640年~)
慧沼・・・唐の僧(648年~)
↓↑ ↓↑
710年
干支=庚戌
日本
和銅 三年
・・・和の金の同
「纂・簒・篹」念?
纂=竹+目+大+糸・・・・編纂
サン
あつめる
くみひも
つぐ
あつまる・むらがる
書物にまとめる
赤い組ひも
継ぐ・受け継ぐ
簒=竹+目+大+么(ノ+ム)・・・簒奪
(什么=何)
うばう
とる
うばう・奪い取る・横取りする
篹=竹+目+大+㔾・・・・
竹+目+大+巳・・・・
かたみ・竹で編んだかご
物を集める・整理する・編集する
記述する・書物を著す
備え物・御馳走
・・・「算・匴・篡・簒・䵵・𣀔・𨏉」
皇紀 1370年
中国
唐 景龍四年、唐隆元年、景雲元年
↓↑ ↓↑
710年
4月13日
(和銅三年三月十日)
↓↑
庚┏戌 (辛丁戊)劫財・偏官 冠帯
冲戊
庚┗辰┓(乙癸戊)劫財・食神 墓
合辛
辛 酉┛(庚 辛) ・比肩 建禄
甲 午 (丙 丁)正財・偏官 病
↓↑ ↓↑
元明天皇
藤原京から
平城京に遷都
唐
安西節度使が設置
劉知幾 『史通』を撰述
誕生
フルラド フランス聖人 (~784年)
死去
1月28日 (和銅二年十二月二十日)
下毛野古麻呂
11月9日 (和銅三年十月十四日)
黄書大伴
安楽公主、唐の中宗の娘( 684年~)
韋皇后、 唐の中宗の皇后(?)
実叉難陀、唐代の訳経僧(652年~)
僧伽、 唐代の僧(628年~)
中宗、 唐の第4代皇帝(656年~)
李重福、 唐の皇族、中宗の庶長子(680年~)
↓↑ ↓↑
後漢書
「後漢一代の
紀伝体の
歴史書
百弐拾(百念・120)巻
本紀 拾(10)巻
列伝 八拾(捌拾・80)巻・・・列(歹+刂)
伝(傳=イ+專)
は
南朝宋の
范曄
の作
それまでにあった
七、八種類の
後漢書を独自に書き改め
論=意見・見解・主張
賛=文体・人をほめたたえる文章
などの評論を付した
志=こころざし・決めた目的や目標
しるす・おぼえる・記憶する
書きつける・記録する
書き記された記録・書物
三十巻は
晋の
司馬彪
の作」
↓↑
「志」が欠けていたが
宋の時代に
孫奭(ソンセキ)
↓↑ 建隆三年(962)~明道二年(1033)
字・宗古謚・宣公
博州博平の人
孫奭は帝の前で経書の講義をし
乱君亡国のことを繰り返し説明
それにかこつけ諷諫
奭=百+大+百=セキ・シャク・カク・キャク
さかん
↓↑ いかる(怒る)・・・斑鳩・鵤?
百舌鳥(鵙・鴃・鶪・万代)
百済・百濟(久多良・伯濟・柏斎)
百樹(百々木・舍利弗・驫木)
皕=百+百・・・説文解字
奭
盛んなり・大に従ひ、皕に従ふ
皕の亦聲、此れ燕の召公の名
讀みて郝(セキ)の若し
史篇に醜(シュウ・みにくい)と名づく
外す・解消なる(解消)
大きな鐘
↓↑ ↓↑
襫=衣(衤)+奭
セキ
襏襫(ハツセキ・のみ?)」
多指蓑衣=蓑(みの・雨衣)
夫須(蓑・みの)=襏襫(太織の雨衣)
雨具の類
↓↑ ↓↑
奭・・・
衋=聿+皕+血
⺻+一+皕+血
肀+二+皕+血
肀+二+百+百+丿+皿
肀+一+百+百+丿+皿
肀+二+一+白+一+白+丿+皿
キョク
いたむ
痛む・悲しみ
ヒョク
讀みて「祕の若くす」
↓↑ ↓↑
文=通過儀礼としての文様
出生に際して
額に文を施すのが産(產)
成人の儀式として
額に施すのが彦(彥)
廟見の加入儀礼として施すのが顔(顏)
婦人の死喪に両乳として
鮮やかな朱色で施すのが爽・奭・爾
枉死のような凶礼に
「×形の文身」を加えて鎮めるのが凶
その側身形が「匈」
それを施すところが「胸」
それを施された枉死者が「兇」
・・・???・・・
↓↑
孫奭(ソンセキ)
の建議に基づいて
「司馬彪」・・・豹=ヒョウ=彪=とら=虎=乕=寅
の
『続漢書』の
「志」が合本
紀伝の部には
唐の
章懐太子・・・章は
懐(ふところ)の
太(デブ)の
子(一了・鼠・移鼠)
李賢・・・木之子はカシコイ?
の注
「志の部」には
南朝
梁の
「劉昭」
の注が付されている」
↓↑
後漢書
五感(目・耳・舌・鼻・皮膚=視・聴・嗅・味・触)
互換(トリかえる)
後神(ウシろがみ)
御棺(ヒつぎ・柩)
冴寒(こオル)
古閑(ひま・コカン)
虎関 師錬
1278年5月9日(弘安元年四月十六日)
~
1346年8月11日(貞和二年七月二十四日)
1344年10月(66歳)~1354年
大運 癸 亥偏財
戊寅(戊丙甲)劫財・印綬 死⇔ 丙 戌印綬
丙辰(乙癸戊)印綬・偏財 衰⇔┏乙┏未偏官
己巳(戊庚丙) ・傷官帝旺⇔┗庚┏子傷官
庚午(丙 丁)傷官・比肩建禄⇔ 壬┗午正財
戌亥空亡
↓↑ ↓↑
臨済宗の僧・詩人
十歳、比叡山で受戒
南禅寺の規庵祖円
建仁寺の
無隠法爾らに帰依
号 虎関
諱 師錬
諡 本覚国師
一山一寧(いつさんいちねい)
らに学び
東福寺・南禅寺などの住持
五山文学の先駆者
著「元亨(げんこう)釈書」・「済北集」
↓↑
護肝(きも)
梧幹(あおぎり)
↓↑
語幹の五感
↓↑
金春秋(第29代新羅・武烈王)・・・金武治安芸?
「善徳、真徳」女王の弟・・・?
「善徳」女王は
伯母=叔母(母方)・・・・・・?
↓↑ ↓↑
妃 金舒玄の娘の
文明夫人・文姫
次男 文武王
三男 金仁問
四男 金文王
六男 金老且
七男 金智鏡
八男 金愷元
三女 智炤公主(母方の伯父・金庾信に嫁いだ。)
後宮 金宝姫(文明王后の姉、金庾信の長妹。)
五男 金皆知文
九男 金車得
次女 瑶石公主
十男 金馬得
↓↑ ↓↑
661年6月
陣中で病死
↓↑
金春秋が
真徳女王・・・「善徳女王」=新羅第27代の女王
↓↑ ↓↑
新羅 ↓↑
第28代女王 635年
↓↑ 父の真平王の
柱国・楽浪郡公・新羅王
の爵号を継承
647年正月
女王が任命した
上大等の
毗曇
らが内乱
金庾信(黄帝の子の少昊金天氏の子孫)
ら地方勢力が女王を支援して乱の収拾
同月八日に女王は陣中に没
狼山(慶州市)に葬られた
在位十六年
その後
金庾信らは
「真徳女王」
を立て
正月17日
乱を鎮圧
毗曇ら20余名を誅殺
唐からは
光禄大夫の号を追贈
姓・諱 金徳曼
別号 徳曼公主
国号 聖祖皇姑
父 真平王
母 摩耶夫人
↓↑ ↓↑
真徳女王・・・「善徳女王」の妹
(在位647年~654年・・・在位8年後・654年3月死去
姓 金
諱 勝曼
父 第26代 真平王の母方の叔父
真安葛文王国飯
↓↑ 母 朴氏の満天葛文王の娘の月明夫人
と
↓↑
唐との関係を模索
律令制度を取り入れ
650年
新羅独自で用いていた
年号(太和)を廃止
唐の年号を用い
唐との連携を強化
↓↑
660年
唐は海路から
百済を攻撃
新羅も百済に出兵し
将軍
堦白を撃破
百済の首都
泗沘が唐によって攻略
熊津も攻撃を受け
百済は滅亡
↓↑
663年
白村江の戦い
百済遺臣は
倭国や高句麗の支援を頼みにしたが
倭国派遣軍が
唐に大敗
↓↑
666年
高句麗の
淵蓋蘇文が死去
↓↑
667年
高句麗遠征を開始
新羅の
文武王(在位661年~681年)は
唐に呼応し
高句麗に攻め入った
↓↑
668年
唐軍が
高句麗の首都
平壌を陥落させ
高句麗は滅亡
↓↑
唐は
旧百済領 に「熊津都督府」
旧高句麗領に「安東都護府」
設置し
羈縻州として組み込み
新羅の
文武王を
鶏林大都督
として朝鮮半島全域を支配下に置く
↓↑
新羅は
高句麗
最後の王である
宝蔵王(在位642年~668年)の外孫
「安勝」を
「高句麗王(報徳王)」に封じ
「高句麗の使者」を
「倭国」に朝貢させた
以後
新羅の使者が帯同し
高句麗使が
倭国へ送られた
「報徳王」の冊立
新羅王権の正統性を示し
唐が設置した
安東都護府に対抗
↓↑
唐は
百済故地に置いた
熊津都督府の都督に
旧百済王族の
「扶余隆」
を据え
新羅王と会盟を行わせ
制圧した
城や遺民の返還を要求
新羅は
朝鮮半島全体=「唐の羈縻州」とし
境界をわかつべきではないと主張
↓↑
670年
新羅は旧百済領に侵攻
↓↑
672年
2度目の謝罪使を派遣
侵攻と謝罪を
繰り返しつつ勢力を扶植・・・
↓↑
唐は
674年
新羅征討軍を起こし
675年
新羅は
3度目の謝罪使を派遣したが
唐皇帝
高宗(在位649年~683年)
の逆鱗に触れ
「文武王」
の官職剥奪まで進展
新羅は
謝罪外交と並行し
軍事的処置を取り
↓↑
676年
伎伐浦で
唐軍を破って
旧百済領全域の支配を掌握
唐は
熊津都督府を
遼東の建安城
安東都督府も
遼東城に後退させた
↓↑
唐はなお
新羅征討を計画したが
チベットの
吐蕃に兵力を回し
678年
新羅征討を断念
新羅は
朝鮮半島中部以南から
唐の勢力を排除
↓↑
684年
新羅は
安勝の
高句麗亡命政権を潰した
↓↑
696年
唐と渤海との間に戦端
渤海により
唐と新羅は国境線を接しなくなった
↓↑
732年
渤海は
山東の
蓬莱港を占領
唐は
新羅に
南から
渤海
攻撃を要請
新羅は
渤海を攻撃
唐が渤海と和解し
渤海攻撃の功績が認められ
735年
唐から
浿江
以南の地を冊封された
ー↓↑ーーー
藤原房前
↓↑
藤原北家
宝亀二年二月二十一日
(771年3月11日))
参議
藤原房前・・・藤原不比等の次男
天武十(681)年
~
天平九年四月十七日
(737年5月21日)
流行病で死去
の次男
母は
大宰帥
美努王の娘
牟漏女王
官位は正一位・左大臣
贈太政大臣
長岡大臣
ー↓↑ーーー
統一新羅
官僚制度の改革
降伏した
百済・高句麗
などの王族、貴族を格下げし
官位制度の中に組み入れ
律令制を取り入れ
官吏の養成機関として
国学という教育機関設置
州・郡・県を基本と為す
郡県制を基本とした
地方支配体制が整えられた
旧新羅・任那・加羅領に3州
旧百済領に3州
旧高句麗領に3州
の9つの州が設置
副都五京によって
地域支配
↓↑
745年頃~750年代後半
飢饉や疫病が発生
↓↑
755年
九州北部
日本へ亡命
帰化した新羅の民が多数
↓↑
天平宝字三年(759年)九月
大宰府に
新羅からの帰化人に対し
帰国したい者があれば
食料等を与えたうえで
帰国させよとする勅を出した
↓↑
756年
帰国を希望しなかった
新羅人
13人を
武蔵国に送還
飢饉や疫病によって
新羅の賊が発生
ーー↓↑ーー
668年以降
日本は
遣新羅使を派遣
↓↑
672年
壬申の乱
大海人皇子(天武天皇)は
親-新羅政策・・・親-新羅⇔天武天皇
親-百済⇔天智天皇
親-百済⇔弘文天応
↓↑
持統天皇(在位690年~697年)
天武天皇の外交方針を継ぎ
親-新羅政策
新羅は
日本への朝貢関係をとった
↓↑
687年(持統天皇元年)
帰化した
新羅人14人を
下野国
新羅の
僧侶、百姓の男女22人を
武蔵国に
土地と食料を給付
↓↑
689年(持統天皇三年)
新羅人を
下毛野に移し
690年(持統天皇四年)
新羅人を
武蔵国
下毛野国
に居住させ
↓↑
715年(霊亀元年)
尾張国人の
席田君邇近
新羅人74人
が美濃国を本貫地とし
席田郡に移される
天平五年(733年)
↓↑
735年(天平七年)
日本入京の新羅使が
国号を
「王城国」・・・「王の城の国」
と
改称したと事後通告し
日本の朝廷は
無断で国号を改称した無礼を責め
使者を追い返した
朝鮮半島中南部の
統一新羅が
日本と
対等な関係を要求
渤海が
遣日本使を派遣
↓↑
736年(天平八年)
遣新羅大使の
「阿倍継麻呂」は
新羅で非礼な扱いを受け
朝廷は伊勢神宮など諸社に
新羅の無礼を報告し
調伏のための奉幣
以後
新羅使を
大宰府に止めて帰国させ
入京を許さなかった
↓↑
天平九年四月十七日
(737年5月21日)
↓↑
「阿倍継麻呂」
は新羅からの
帰国途中に病死
残された
遣新羅使の帰国後
平城京で
「天然痘」
疫病が流行
疫病が
新羅から持ち込まれた・・・???
↓↑
752年(天平勝宝四年)
新羅王子
金泰廉
ら700余名の新羅使が来日
朝貢
使節団は
奈良の大仏の塗金用に
大量の金を貢いだ・・・
王子による朝貢で
新羅は日本に服属・・・
↓↑
753年(天平勝宝五年)
長安での席次争い
長安の大明宮で
唐の朝賀
遣唐使
「大伴古麻呂」が
新羅の使者と席次を争い
意を通す
唐は
新羅が
日本の
従属国である事実を受け
新羅を下位に置いた
新羅の
景徳王は
遣新羅使に謁しなかった
↓↑
藤原仲麻呂
新羅征討計画
758年(天平宝字二年)・・・宝(財)の字の字念
安禄山の乱 宝姫=高良秘め=斉明天皇
藤原仲麻呂(仲麿・仲丸・淳仁朝以降は改姓
藤原恵美押勝(えみおしかつ))
は
大宰府
諸国の防備を厳にすることを命じ
759年(天平宝字三年)
新羅が
日本の使節に無礼をはたらいたとし
藤原仲麻呂・・・親百済?
(恵美押勝=えみのおしかつ=笑生死活)
「海老・蝦・蛯」之「尾死活」?
は
新羅征伐の準備
軍船394隻
兵士4万700人
の動員遠征計画
孝謙上皇(阿部皇女)・・・親新羅?
と ・・・親唐(阿部仲麻呂)
藤原仲麻呂・・・・・・・・親百済?
との不和により
不実行
↓↑
8世紀の終わり
新羅国内混乱
再び日本に慇懃な態度
宝亀十年(779年)
新羅は
日本への服属を象徴する
御調(みつき)を携え使者を派遣
↓↑
新羅の混乱により
多数の難民が日本列島へ亡命
大量に帰化を申請
日本は
「蛮国」の人民が
天皇の徳を慕って
帰化を願い出た事を嘉
帰化を許可した
↓↑
780年
正規の遣新羅使は停止
以後
遣唐使の
安否を問い合わせる使者が
数度送られたのみ
↓↑
民間レベル(交易)の交流は継続
新羅商人
張宝高=張保皐
本名 弓福(弓巴・保皐)
生れは「海島人」
唐に渡り「徐州の軍将」
帰国後は
「清海鎮大使・感義軍使
奴隷貿易禁圧の鎮海将軍」
日本・新羅・唐の3国間の
海上貿易で富を得た
新羅の海商
イスラム商人とも交易
日本の
遣唐使や
円仁らの入唐をたすけた
王族間の後継争いで
金祐徴(神武王)が
張保皐のもとに身を寄せ
金祐徴を支援するために
友軍の
鄭年に5千の兵を与えて
閔哀王を討ち
金祐徴は
「神武王」として即位・・・?
張宝高は
娘を
「文聖王」の王妃にする約束が
破られ反乱
文聖王三年十一月刺客に殺害された
・・・「文」は時代を超えて裏切る・・・?
ーーーーー
780年
武烈王の王統が絶え
王位継承の争い
王位簒奪
王都内での反乱発生
↓↑
骨品制で
新羅王族のみが
上位官僚を占め
官僚制度は行き詰まり
災害や飢饉
反乱や内戦
渤海(698年~926年)との対立
新羅は滅亡
↓↑
恵恭王の時代
第36代
恵恭王
の在位中に
律令体制の推進派
と
旧来の貴族連合的体制への復帰派
との対立
反乱が多数発生
↓↑
768年7月
一吉飡(7等官)
大恭
阿飡(6等官)
大廉
兄弟の反乱
貴族連合体制復活派の反乱
王都を33日間包囲
王の軍隊が平定
↓↑
770年8月
大阿飡(5等官)
金融の反乱
金融は
金庾信の後裔で
中央貴族に対抗する
地方勢力を代表する
律令体制推進派
↓↑
775年
6月
伊飡の
金隠居の反乱
元侍中の
金隠居は
金融の反乱の後に退官し
反乱を起こした
貴族連合体制復活派の反乱
↓↑
8月
伊飡の廉相
侍中(現職)の正門が反乱を企て
発覚して誅滅
正門は
金隠居の退官の後に侍中に就任し
律令推進派の反乱
↓↑
776年正月
新羅政府は教書を出し
律令体制を強固に推進した
景徳王が
唐風に改名した百官の名称を
旧来のものに戻した
貴族連合体制派への譲歩
律令体制推進を
廃止しようとするものではなく
3月に
倉部(徴税)の史(3次官)を8名増員
国家財政や
人民支配の強化
↓↑
780年
2月
伊飡の
金志貞が反乱
宮中包囲
4月
上大等の
金良相(宣徳王)が
伊飡の
金敬信(元聖王)とともに挙兵
金志貞を滅ぼす
戦乱の中で
恵恭王
王妃
ともに殺害
↓↑
781年7月
浿江(大同江)以南の地に
使者を送って安撫
↓↑
782年閏正月
第37代
宣徳王
唐に対して朝貢
渤海に備え
北方面の守備に努め
↓↑
782年2月
漢山州(京畿道広州市)の住民を
浿江鎮(黄海北道平山郡・金川郡)
へ移住させた
↓↑
785年正月
唐の徳宗から
検校太尉・鶏林州刺史・寧海軍使・新羅王
に冊封されたが
正月13日に死去
↓↑
宣徳王(?~785年)
第37代の王(在位780年~785年)
姓 金
諱 良相
第17代
「奈勿尼師今」の十世孫
父 海干(4等官の波珍飡)の
金孝芳
母 第33代
聖徳王の娘
四炤夫人
追封 開聖大王
貞懿太后
王妃 角干(1等官)の金良品の娘
具足夫人・・・「具の足」
ーー↓↑ーー
「匕首伝説=背後からの一突き」
「十一月の犯罪者」
「ヴェルサイユ条約の強制命令」
「地域-国家社会主義の革命」・・・?
↓↑
「民族社会主義≒人種社会主義」
↓↑
「肉食的な群れ型動物種の社会生活」
「蟻型」、「蜂型」・・・
「昆虫型社会主義」・・・
↓↑
「われらが最後の希望」・・・
・・・経済的困窮 からの解放者・・・
・・・経済的破壊、困窮の形成者・・・
↓↑
「国家社会主義」vs「国際(世界)社会主義」
・・・・そんなモノはなかった・・・
私有財産・私有権力・・・
プチブル思想の肥大化・・・
「人間意識のサガ」・・・「自然・天然」意識?
上昇志向・ドリーム(幻想試行)・・・
ーーーーー
・・・???・・・地球、大陸、半島、島々・・・
親戚、親類、一族郎党が
流浪し、居座っても、居付いても、どっかに行っちまッても・・・
縄張り争いで
近親の親戚、親類、一族郎党の確執、権力闘争・・・
・・・