媽媽狠着心把我売了=母は心を鬼にして私を売った・・・偶?
2835日目・文字霊日記
瓜坊(ウリボウ・猪の子)の土偶
↓↑
狼=おほかみ=大神・大上・意冨カミ・緒保化視?
↓↑
狼=犭+良
犭+′+艮
犭+白+𠄌+ト(仆)
犭+白+𠄌+乀+ノ
犭+白+𧘇
ロウ
おおかみ
みだれる・狼狽
↓↑
狠=犭+艮
ゲン(グヱン)・ゴン・ガン(グヮン)
ギン・コン
もとる
コン・かむ・もとる
さからう・ねじける
「狠恣(コンシ)」
はなはだ・ひどい
犬がかみあうとき発する声
物事の根がふかく、はげしいさま
根性がひねくれているさま
狠毒=あくどい・狠心=むごい
↓↑
人の心、考え方が酷い・残忍、凶悪である
心腸太狠=性根がむごすぎる・非情になる
心肠太狠 思い切ってする・心を鬼にする
媽媽狠着心把我売了
妈妈狠着心把我卖了
妈妈狠着心把我买了
母は心を鬼にして私を売った
↓↑
蜋=虫+良
↓↑ カマキリ(螂・蟷螂・螳螂)
・・・鎌足⇔蟷螂⇔鎌切
藤原鎌足を切る?
藤原不比等(史)?
等しく比べられず
藤原鎌足の次男
史(ふひと)との記録
『興福寺縁起』 『大鏡』
『公卿補任』『尊卑分脈』
などでは
天智天皇の落胤・・・?
諡号 文忠・・・文=亠+乂
忠=中+心
国公 淡海公・・淡海(近江)の公
母 車持国子君の女(娘)
与志古(よしこ)娘也
車持夫人
鎌足の
長男(定恵)=僧侶
次男(不比等)=史(書記官)
天皇の子=不比等ではなく定恵
(『多武峯略記』では
定恵は孝徳天皇の落胤)
↓↑ ↓↑
蜋(クソムシ・カマキリ)
「堂蜋なり(説文解字・巻十三)」
「一名に蚚父」とある
蚚=キ・ゲ・カイ・ガイ
こくぞうむし
穀象虫=コウチュウ目(鞘翅目)
オサゾウムシ科の
ゾウムシの一種
米食い虫
イネ科穀物の喰い荒らす害虫
縄文時代後期の
土器圧痕からの検出例がある
↓↑
艮=日+𠄌+ト(仆)
仆=人+ト・・・人を卜占する
異体字「𧻳・䞳・踣」
僕の簡体字
日+𠄌+乀+ノ
コン
ゴン
うしとら
そむく・さからう・もとる
止まる・とどまる
易(エキ)の八卦の一
易(エキ)の六十四卦の一
北東の方角
↓↑
艮+α
艮・良・退・狠・恨・很・茛・限
拫・垠・莨・狼・娘・浪・悢・根
郞・琅・樃・朖・眼・㫰・朗・桹
痕・硠・稂・蒗・貇・粮・廊・筤
跟・羪・蓈・蜋・豤・艆・誏・郒
腿・瑯・踉・銀・榔・鋃・褪・閬
螂・墾・艱・簋・懇・籑・齦・㝗
哏・㮾・塱・螁・㾿・恳・䓳・䬶
煺・阆・㓪・剆・艰・㢃・垦・蛝
㾗・峎・䈨・斏・䦘・泿・锒・駺
佷・㟍・哴・㱢・嫏・裉・䀶・蹆
䕞・檭・鎯・䯖・珢・鞎・㙟・勆
埌・㾼・崀・䍚・酿・䫀・烺・龈
俍・㡾・啷・蓢・㸧・孂・詪・䆡
躴・䡙・欴・银・硍・飬
ーーーーー
YS
(1966年9月10日)
大運2017年5月(50歳)~2027年
辛卯 印綬
丙午(丙 丁)偏財・偏財 胎⇔ 丁酉 正財
┏丁酉(庚 辛)正財・偏印沐浴⇔┏丁未 正財
┗壬申(戊壬庚) ・偏官長生⇔┗壬戌 比肩
丙午(丙 丁)偏財・偏財 胎⇔ 丙午 偏財
戌亥空亡
↓↑
S0
(1927年9月16日~2019年10月22日)
大運2015年5月(87歳)~2025年
戊 午 正官
丁┏卯(甲 乙)偏財・傷官長生⇔┏己 亥 偏官
己┗酉(庚 辛)偏官・印綬 病⇔┗甲┏戌 傷官
┏癸 丑(癸辛己) ・比肩冠帯⇔ 壬┗辰 劫財
┗戊 午(丙 丁)正官・正財 絶⇔ 丙 午 正財
寅卯空亡
ー↓↑ーーー
瓜坊(ウリボウ・猪の子)
イノシシの子・体形や毛色が
ギンマクワウリに似ている
10本位の白い縞があり
シマウリに似ている
幼生期に
縞模様の体毛
楕円形の体型が
瓜に似ている
↓↑
瓜坊(ウリボウ・猪の子)土偶
↓↑
日ノ浜遺跡出土の動物土偶
出土年月日
1966年(昭和41年)7月24日~8月5日
日ノ浜遺跡(ひのはまいせき)
(津軽海峡に面した砂丘に位置
北海道亀田郡恵山町〈函館市高岱町〉所在)
縄文時代晩期
函館市保管・市立函館博物館
寸法 体長5.6㎝、体高4.2㎝
瓜坊(猪の子)の土偶
縄文時代の
北海道に猪は棲息しておらず
この土偶は
交流していた本州から
交易品として道南に伝わり
祭事などに使用されていたと考えられる・・・
・・・イノシシは「津軽海峡」を渡らなかったのか・・・?
斉明天皇元年(655年)
「津刈蝦夷」の記録
津軽=津借=津刈・・・津+珂瑠(かる)
・・・「珂瑠(かる)=軽」・・・の意味はナニ?
珂=王+可=白瑪瑙(しろめのう)
轡(くつわ)貝・南海に産する白色貝
くつわ貝でつくった「馬のくつわの飾り」
瑠=瑠璃(るり・硝子碗、硝子杯の色の名)
青玉・紺青色の宝石・ガラスの古称
軽(ケイ・キン・かるい)=車+圣(又土)
=輕=車+一+𡿦( 巛)+工
軽戦車
巠=縦糸を工具の上に張った様
工=糸車
文武天皇
683年
天武天皇十二年~
707年7月18日
慶雲四年六月十五日
第四十二代天皇
在位
697年8月22日
文武天皇元年八月一日
~
707年7月18 日
慶雲四年六月十五日
諱は珂瑠(かる)・軽(かる)
父は草壁皇子
草壁(防壁)⇔草薙(草彅・草刈り・剣・鎌)?
母は阿閇皇女(天智天皇の娘・元明天皇)
↓↑
土偶=人物土偶・縄文時代人物土偶
四島(北海道・本州・四国・九州)の各地で出土
「石偶(セキグウ)・岩偶(ガングウ)」も含む
「木偶(モクグウ)」は弥生時代・・・
・・・妊娠女性・・・?
↓↑
ヴィレンドルフの
ヴィーナス (Venus of Willendorf
ドイツ語:Venus von Willendorf
ヴェーヌス・フォン・ヴィレンドルフ)
先史時代の
「ヴィレンドルフの女」としても知られる
女性の姿をかたどった
高さ 11.1cmの
スティアトパイグス
(steatopygous・臀部突出)
型小像
前22,000年~20,000年
(約24,000年~22,000年前)
ウーライト (魚卵状石灰岩) に彫刻
女陰、乳房、膨張した腹部の女性の姿
ウィーン自然史博物館の蒐集品の一部
↓↑
ククテニ文化(Cucuteni culture)
新石器時代後期の
東ヨーロッパの考古文化
ルーマニアの地名
他に
トリポリエ文化(Tripolye culture
ウクライナ地名のロシア語)
ククテニ・トリピリャ文化
(Cucuteni-Trypillian culture・ウクライナ語)
などとも呼ばれ
ルーマニア・モルドバ・ウクライナ
に当たる
カルパティア山脈~ドニエプル川付近までの地方
紀元前5500年~2750年頃に栄えた
19世紀末に発見
彩色土器(彩陶)
家屋は木造で一~二階建
集落全体が数十年おきに
故意に焼かれ作り直された
土偶
トリポリエ出土の女性形土偶
ククテニ文化(トリポリエ文化)
「クルガン文化」を担う
インド・ヨーロッパ語族民が
東方のステップ地帯からやってきて
征服する前の
「古ヨーロッパ」の代表的文化・・・
ククテニ文化に続き
ヤムナ文化(竪穴墓文化)
カタコンブ文化(横穴墓文化)
ー↓↑ー↓↑ー
ヒルコ=水蛭子・・・卑弥呼?・
オシリス?
蛭子神・・・キリスト?
蛭子命・・・モーゼ?
蛭児・・・・中+ム+至(𠫔土)
至=𠫔+土・・・ウマしクニ?
一+ム(よこしま)+十+一
壱邪拾壹(異地・位置・位地)
シ
いたる
とどく
ゆきわたる・およぶ・ゆきつく
この上ない・きわめて
いたって・非常に
日の最も
長い日=夏至(げし)
短い日=冬至(とうじ)
厶・么・㕕+厽・𠫬・厸=リン・となり
𠫔=𠮛の異体字
𠫔=一+ム(私・よこしま・邪)
𣅀=亠+日
シ・むね・うまい
旨・㫖・𣅌・𠤔・𤮻・𠩊・𠮛
むね=意図していること、意向
天子や上位者の指示や命令
その考えや意向
甘(うま)い・旨い・美味い
食べ物がおいしい
至+α
到=至+刂=到着
致=至+攵=いたる
臵=至+各=カク・至る
臸=至+至=到着
臶=至+存=セン・次々に来る・再び来る
重ねて・再び・しきりに
臷=土+至+戈=テツ・老いる・八十歳の老人
臹=至+成=シュウ・習う・進む
臺=吉+冖+至・・・邪馬台(臺)國?
=タイ・ダイ
うてな・しもべ
たかどの・高い建物
しもべ・下僕・奴婢
人や物をのせる道具
高く平らな土地
朝廷・役所
相手を敬って呼ぶ語
機械や車などを数える語
台湾(たいわん)の略
臻=至+秦・・・・秦に至る・秦が至る???
至+三+人+禾
一+厶+土+秦
至+一+一+一+人+禾
𠫔+土+一+一+一+人+丿+木
一+厶+土+三+人+丿+十+八
一+厶+土+一+一+一+人+禾
=シン
いたる・おおい・きたる
およぶ・よりあつまる
↓↑ ↓↑
蛭子=蛯子=昼子=日瑠子・・・卑弥呼?
えび=海老・蝦・蛯・・・蝦夷?
↓↑
『古事記』
イザナギ(伊耶那岐命)
イザナミ(伊耶那美命)
との間に生まれた
最初の神・・・かみ?
↓↑
イザナミから先にイザナギに
声をかけ
不具の子に生まれ
葦の舟に入れられ
オノゴロ島
から流された
次に生まれた
アハシマ
と共に
神の子の数には入れない・・・
「わが生める子良くあらず」
とある
「水蛭子」=手足が異形・・・?
胞状奇胎・・・・?
↓↑
『日本書紀』
三貴子
(みはしらのうずのみこ)
の前に生まれ
最初に生まれる神ではない・・・
イザナミがイザナギに声をかけ
最初に淡路洲(淡路島)
次に蛭児
を生み
蛭児が三歳になっても
脚が立たなかったため
天磐櫲樟船
(アメノイワクスフネ=堅い楠の船)
に乗せて流した・・・
↓↑
伝承・信仰
蛭子神が流れ着いた伝説
『源平盛衰記』
摂津国に流れ着いて海を領する神
夷三郎殿として西宮に現れた(西宮大明神)
日本沿岸の地域で
漂着物を
えびす神として信仰
↓↑
ヒルコ
と
えびす(恵比寿・戎)
を同一視する説は
室町時代から・・・
「蛭子=えびす」
と読む・・・
ヒルコ(蛭子神、蛭子命)神社
和田神社(神戸市)
西宮神社(兵庫県西宮市)
恵比寿
を祭神とする神社
恵比寿=事代主
↓↑
平安期の歌人
大江朝綱は
「伊井諾尊」という題で
「たらちねは
いかに
あはれと思ふらん
三年に成りぬ
足たたずして」
穢れとして流された不具の子を憐れみ
異形が神の子の印(聖痕)
とする伝承に引き継がれた・・・
異相の釣魚翁である
エビス(夷/恵比寿)と結びつき
ヒルコ=エビス
が混同・・・
ヒルコ=日る子(太陽の子)
日の御子
貴種流離譚
「日の御子」を守り仕えたのが
「エビス」・・・
↓↑
淡島神(あわしまのかみ・あはしまのかみ)
あワしまのかみ・あハしまのかみ
和歌山県
和歌山市
加太の
淡嶋神社を総本社とする
全国の
淡路神社の祭神
明治の神仏分離で
少彦名神
等に置き変えられた
淡島神を祀る
淡島堂という寺も各地にある・・・
↓↑
婦人病治癒
安産・子授け
裁縫の上達、人形供養
女性に関するあらゆる
霊験の神
江戸時代
淡島願人と呼ばれる人々が
淡島神の人形を
祀った厨子を背負い
淡島明神の神徳を説いて廻った
↓↑
淡島神(淡島明神)
少彦名神とする説
少彦名神が医薬の神とされ
『古事記』
『伯耆国風土記』
に
国造りを終えた
少彦名神が
粟島(あわしま)から
常世の国へ渡った
加太淡島神社
多くの淡島神社が
祭神を
少彦名神
大国主神
としている
蛭子神と同じく
不具の子で
葦の舟に乗せて流され
子の数には数えない・・・
住吉明神の后神であるとする説
淡島神は
天照大神の
六番目の御子神で
住吉明神に嫁いだが
婦人病にかかったことにより
粟島に流され
そこで婦人病の人々を救うという誓いを立てた
和歌山市加太と対岸の
友ヶ島が住吉神社の社領であったことから
後世に附会された・・・
婆利塞女(ばりさいじょ)説
俚俗に
婆利塞女は
16歳の
3月3日に歯を染めて
住吉明神に嫁いだが
(その際に
紀伊国の紀の岬から
摂津国の住吉浦まで
干潟と化しそこを通行)
後
婦人病を患ったために
夫婦の仲に障りを来す事を嘆き
形代を作ってその障りを除いた
加太の淡嶋神社に
女子から人形が奉納されるのはそれに縁る
同名の神女に
頗梨采女がおり
頗梨采女は
牛頭天王の后神・・・
「舟に乗せて流された」
が共通し
少彦名神が
「舟に乗って海の彼方から来た」
舟でやって来るが共通
婦人病に
神験ありという点が共通
↓↑
淡島神は
女神だから女性を守る
加太淡嶋神社では
神功皇后が祀られており
神功皇后自体にも
安産や病気平癒の御利益
↓↑
淡島神を祀る社寺
総本社である
淡嶋神社
淡島神を祀る各地の神社
淡島(嶋)神社
粟島(嶋)神社
を称し
少彦名神を祀る
淡島堂が存在する
粟嶋堂宗徳寺(京都市下京区)
八幡山浄光院森巖寺(東京都世田谷区)
淡島明神を祀る淡島堂が存在する寺院
浅草寺(東京都台東)
ーーーーー
伊吹山=猪伏耶麻
滋賀県米原市
岐阜県揖斐郡揖斐川町
不破郡関ケ原町
にまたがる
伊吹山地の
主峰 標高1,377 mの山
北緯35度25分
東経136度24分
「五十葺山(日本書紀)」
「伊服阜能山(古事記)」
別記で
「膽吹山」
「伊服阜山」
「伊夫阜山」
とも記録
「大乗峰(修験道)」
伊吹山之神は
「白猪」
↓↑
「牛のような大きな白猪(古事記)」
「大蛇(日本書紀)」
↓↑
古代
近江国
美濃国
で伊吹神が祀られた
『延喜式』神名帳に
「伊夫伎神社」
「伊富岐神社」
と記載されて式内社に列し
美濃の
伊富岐神社は美濃国内において
南宮大社(一宮)に次ぐ
二宮に位置
近江神社は
伊夫岐神社(滋賀県米原市伊吹)
美濃神社は
伊富岐神社(岐阜県不破郡垂井町岩手)
創祀については
美濃地方の豪族の
伊福部氏との関係・・・
↓↑
織田信長により
山上に野草園が造られた
明治以降に登山の対象
大正
中山再次郎
により
スキーの山
↓↑
役小角
伊吹山に
弥高寺
大平寺
を建立・・・
白山を開山した
泰澄は
この山に白山信仰を伝えた
密教と結びついき
修験の場として
多くの寺院が山中に建立
851~854年(仁寿年間)
僧三修により
伊吹山の南側の中腹の尾根上に
山岳寺院の
弥高寺が建立(日本三代実録)
三修(さんじゅ)により
山上と山麓に
山岳寺院が建立
山岳修行の山とされていた
弥高寺は伊吹山寺と呼ばれる
定額寺の中心となる一つで
伊吹四大寺として他に
大平寺、長尾寺、観音寺
が建立され
伊吹護国寺となった
鎌倉時代
山岳宗教が発達
数百の堂房が山中に建ち
戦国時代に兵火でほとんどが焼失
弥高寺は戦国時代に
京極氏や浅井氏により城郭の一部として改造
1512年(永正九年)
兵火でふもとに坊舎が移された
円空は
伊吹山の
太平寺に暮らし
平等石(行道岩)で修業し木彫仏を残した
673年
天武天皇により
麓に三関のひとつである
不破関が設置
平安時代
日本七高山(近畿地方の七霊山)の一
に数えられる
712年(和銅五年)
「古事記・景行記」
日本武(建)尊説が記録
851~854年(仁寿年間)
伊吹山の南側の中腹の尾根上に
山岳寺院
弥高寺が建立
1558年(永禄元年)
~
1570年(永禄十三年)
織田信長が
南蛮人から入手した
薬草を栽培する菜園を
伊吹山に作らせ
菜園には
ポルトガル人が自国で用いていた
約3,000種のハーブが移植された・・・
明治末年
川崎義令が
千種類に及ぶ薬草を採取
1912年(大正元年)10月
山頂の弥勒堂近くに礎石を築き
日本武尊の石像が供養
伊吹山観測所
1919年(大正八年)8月1日
伊吹山観測所が気象観測を開始
観測所建設時
周辺で古刀や古銭が発掘
1927年(昭和二年)2月14日
11.82m の積雪量観測
世界山岳気象観測史上1位
1929年(昭和四年)5月1日
観測所が
国営
気象庁付属
伊吹山測候所
となる
濃尾平野で
冬季に北西の方角から吹く
季節風を
「伊吹おろし」と呼ぶ
ーーーーー
・・・???・・・