鯨(クジラ)目と河馬カバからなる系統

 2777日目・文字霊日記
 シマの大臣・・・揣摩・志万・・・の太尽(他意訊)・・・

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 ↓↑
 「I MY ME」・・・「私は(が)・私の・私に」・・・私=厶
 ↓↑
 曖=日+愛
   日+爫+冖+心+夂
   ・・・日=囗+一
      爫=爪
      冖=ワ
      心=㣺=忄
      夂=攵=𠂉+乂
   アイ
   おおう
   かげる
   くらい
   くらい
   ぼんやりくらい
   はっきりしない
   おおう・かくす・さえぎる

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 ↓↑
 鯨偶蹄目
 偶蹄目(ウシ目)
 と
 鯨目(クジラ目)
 クジラ目とカバからなる系統
 からなる
 ↓↑
 愛=爫+冖+心+夂
   㤅=旡+心
   爱=爫+冖+友
    アイ
    いとしい
    うい
    おしむ
    かなしい
    まな
    めでる
    いとおしむ・いとしむ
    いつくしむ・かわいがる
    かわいがって大切にする
    めでる・好む・味わい楽しむ
    おしむ・おしんで大切にする
    いとしい・いとおしい
    かわいらしい・かわいらしく思う
    まな
    とてもかわいがっている
    とても大切に育てている
    愛屋及烏(アイオクキュウウ)=溺愛・盲愛
    愛及屋烏(アイキュウオクウ)=
    愛月撤灯(アイゲツテットウ)=月を愛して灯を撤す
    愛財如命(アイザイジョメイ)=財産を命と同等に扱って大切にする
    愛多憎至(アイタゾウシ)=愛や恩を多くもらいすぎると
              憎しみやねたみを生む
    愛多憎生(アイタゾウセイ)=愛多ければ憎しみ生ず
    愛別離苦(アイベツリク)=
    愛楊葉児(アイヨウヨウニ)=浅い知識のままで
               真理を追究しようとしないこと
    屋烏之愛(オクウのアイ)=溺愛、盲愛
    甘棠之愛(カントウのアイ)=すぐれた為政者を人々が慕う気持ち
               甘棠=林檎の木
    強食自愛(キョウショクジアイ)=
    彊食自愛(キョウショクジアイ)=
    敬天愛人(ケイテンアイジン)=
    兼愛交利(ケンアイコウリ)=全ての人を愛して
               互いに利益を与え合うこと
               兼愛=全ての人を愛する意
               墨子儒教
              「仁愛」を差別愛と批判して唱えた思想
              「交利」はお互いに利益を与え合うこ
               出典 『墨子(兼愛・中)』
    兼愛無私(ケンアイムシ)=
    三千寵愛(サンゼンチョウアイ)=玄宗皇帝の三千人の美女の寵愛を
                 楊貴妃が独り占め
    三千寵愛(サンゼンのチョウアイ)=
    舐犢之愛(シトクのアイ)=親が自身の子を溺愛すること
    相思相愛(ソウシソウアイ)=
    尊尚親愛(ソンショウシンアイ)=
    忠君愛国(チュウクンアイコク)=
    寵愛一身(チョウアイイッシン)=三千の寵愛一身に在り
    氾愛兼利(ハンアイケンリ)=全ての人々を平等に愛すること
    汎愛博施(ハンアイハクシ)=
    冰炭相愛(ヒョウタンソウアイ)=
    氷炭相愛(ヒョウタンソウアイ)=
    墨子兼愛(ボクシケンアイ)=
    和顔愛語(ワガンアイゴ)=
    和顔愛語(ワゲンアイゴ)=
    男は度胸、女は愛嬌・・・
 ↓↑
 昧=日+未
   日+一+木
   マイ
   バイ
   くらい
   くらい・光がわずかでくらい
   くらい・おろか・物事を知らない
   戯作三昧
   無知蒙昧 
   無知愚昧
 糢=米+莫
   米+艹+旲
   米+艹+日+大
   ボ
   モ
   かた
   のっとる
   模糊(もこ)=あいまいでぼんやりしたさま
 ↓↑
 糊=䊀+月・・・糊=のり=ノリの同音のスベテ
   米+胡・・・・・・ 胡=えびす=恵比寿
              貊=豸+百
                豸+一+白
              貃=豸+白
              貉=豸+各
                熊に似た猛獣の名
                静かであるさま
              貊=ゑびす
                蛭子・蛯子=ひるこ
                夷・戎・狄・羌・蕃・蛮・蠻
      ・・・「蛭子・蛯子=ひるこ」の死は半島利権の放棄?
   米+古+月
   米+古+月
   米+十+口+月
   米+十+口+月
 ↓↑
 未=一+木・・・未艶=ミタイ=御體・みたい・見鯛
            御他意=聖母マリア
         鼠移=イエス・キリスト
         子丑寅卯辰巳午未⇔申酉戌亥⇔子
         1 2 3 4 5 6 7 8  9 101112⇔13
           一二三四五六 七八九十
    ミ
    ビ
    いまだ
    ひつじ
    まだ
    ひつじ
    十二支の八番目
    方位で南南西
    時刻で午後二時、前後の二時間
    動物で羊(ひつじ)
   「いまだ~ず」と読み
   「まだ~ない」
   「まだ~していない」
   「いまだし」と読み
   「まだである」
   「まだです」の意
   「いまだしや」と読み
   「まだであるか」の意
   地名
   丁未(ていみ)
   伯太町-未明
  (はくたちょう-ほのか)
   東城町帝釈未渡
  (とうじょうちょう-たいしゃく-みど)
 ↓↑
abiiabi1
 ヒツジ(羊、綿羊、学名 Ovis aries)
 ウシ科ヤギ亜科の
 鯨偶蹄目
 角をもち
 食肉、羊毛のために家畜化されている
 1875年(明治八年)
 外国人ル・ジャンドルが
 軍用毛布のため羊毛の自給の必要性を説き
 大久保利通によって下総に牧羊場が新設
 ↓↑
 ‡=double dagger
   二重短剣符・ダブルダガー
   ‡;脚注などの参照符として用いる
 †=短剣符、剣標、ダガーオベリスク
   その変形の
   ‡=二重短剣符、二重剣標
     ダブルダガー、ダブルオベリスク
 ↓↑
 バイアス(bias)=偏り、かさ上げ、斜め
 布目に対して,斜めに裁つこと
  「偏り、偏見、傾向、 斜め、先入観」
 語源は「傾斜」

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 ↓↑
 島津 義弘(しまづ よしひろ)
 天文四年七月二十三日(1535年8月21日)
 ↓↑
 島津貴久の次男
 戦国大名
 島津義久の弟
 島津氏の第十七代当主
 島津氏十八代当主
 島津忠恒(家久)の父
 剃髪して
 「惟新斎」と号し
 「惟新公(いしんこう)」と敬称で呼ばれた
 戦国(安土桃山)時代の屈指の猛将で
 「鬼島津」とも・・・
 ↓↑
 天正二十年(1592年)
 ~文禄の役
 慶長二年(1597年)
 ~慶長の役
 朝鮮渡海戦
 ↓↑
 文禄の役
 四番隊に所属
 1万人の軍役
 国元で
 「梅北一揆
 軍役動員が渋滞
 ↓↑
 義弘は
 大隅国栗野の居城を
 23騎で出立
 肥前国
 名護屋に期日までに着到
 国許の
 義久らから送られてくるはずの
 軍勢・軍船が延引
 島津軍勢は遅陣
 後
 島津軍勢は
 四番隊を率いる毛利吉成の後を追って
 江原道に展開
 和平交渉中の
 文禄二年(1593年)九月
 朝鮮滞陣中に嫡男の
 久保を病気で失った
 慶長二年(1597年)七月
 藤堂高虎らの水軍と連携し
 朝鮮水軍を挟み撃ち
 敵将
 元均
 を討ち取った(漆川梁海戦)
 八月
 南原城の戦い
 諸将との全州会議に参加した後
 忠清道
 扶余まで一旦北上し
 井邑経由で
 全羅道の海南まで南下
 十月末より
 泗川守備
 慶長三年(1598年)九月
 泗川の戦い
 董一元
 率いる
 明・朝鮮の
 大軍
 (島津報告20万人
  『宣祖実録』十月十二日条
   中路明軍2万6,800人及び
     朝鮮軍2,215人の計2万9,015人)
 を7,000人の寡兵で打ち破り
 島津家文書『征韓録』で
 敵兵3万8,717人を討ち取った記載
 徳川家康もこの戦果を
 「前代未聞の大勝利」と評した
 朝鮮からの撤退決定
 朝鮮の役における
 最後の海戦となった
 十一月
 露梁海戦
 立花宗茂らともに
 順天城に孤立した
 小西行長軍救出の為に出撃
 明・朝鮮水軍の待ち伏せによって後退
 明水軍の副将
 鄧子龍
 朝鮮水軍の主将
 李舜臣
 を戦死させ戦果を上げ
 海上封鎖が解け
 小西軍は退却に成功
 作戦目的達成
 島津家は加増
 朝鮮の役で
 義弘は
 「鬼石曼子(グイシーマンズ)」
 と朝鮮・明軍から恐れられていた・・・
 ↓↑
 関ヶ原の戦い
 慶長三年(1598年)
 秀吉死後
 慶長四年(1599年)
 義弘の子
 忠恒
 によって家老の
 伊集院忠棟が殺害され
 忠棟の嫡男
 伊集院忠真が反乱(庄内の乱)
 島津氏内部で
 薩摩本国の反豊臣的な兄
 義久
 と
 親豊臣、中立に立つ
 義弘
 の間で、家臣団の分裂
 義弘に
 本国の島津軍を動かす決定権がなく
 関ヶ原の戦い前後で
 義弘が率いたのは
 大坂にあった少数の兵だけ
 義弘はこの時
 参勤で上京していた甥の
 島津豊久らと合流し
 豊久が国許に要請した軍勢などを
 指揮下に組み入れた
 ↓↑
 慶長五年(1600年)
 徳川家康
 上杉景勝を討つために軍を起し(会津征伐)
 義弘は家康から援軍要請を受け
 1,000の軍勢を率い
 家康の家臣である
 鳥居元忠が籠城する
 伏見城の援軍に馳せ参じた
 元忠が家康から
 義弘に援軍要請したことを聞いていないと
 入城を拒否し
 西軍総勢4万人の中で孤立した
 義弘は当初の意志を翻して
 西軍への参戦を決意
 ↓↑
 家康が上杉征伐のために出陣し
 慶長五年(1600年)七月十五日
 義弘は
 上杉景勝に対して
 「毛利輝元宇喜多秀家前田玄以
  増田長盛長束正家小西行長
  大谷吉継石田三成
  らが「秀頼様御為」であるので
  上杉景勝に味方する
  そして、それに私も加わる。
  仔細は石田三成より連絡があると存します」
 という書状を送って
 西軍の首謀者の一人として
 毛利・石田らと共に
 反家康の動きに参加していた
 ↓↑
 伏見城攻めで奮戦
 後
 濃州垂井の陣所まで進出し
 義弘が率いていた兵数は
 1000人ほどで
 義弘が国許の家老の
 本田正親に宛てた書状で
 援軍を求め
 新納旅庵・伊勢貞成・相良長泰
 大田吉兵衛・後醍院喜兵衛・長寿院盛淳
 らを始めとした
 譜代衆と有志・志願者の
 390人ほどの兵が国許から上京、合流
 ↓↑
 九月十五日(10月21日)
 関ヶ原の戦い
 島津隊は3,000余で
 松平・井伊隊と交戦
 三成の家臣
 八十島助左衛門が三成の使者として
 義弘に援軍を要請したが
 「陪臣の八十島が下馬せず救援を依頼した」
 ため
 義弘や甥の
 島津豊久は無礼であると激怒し
 て追い返した・・・
 ↓↑
 関ヶ原の戦い
 14時頃
 小早川秀秋の寝返り
 石田三成
 小西行長
 宇喜多秀家
 らが総崩れとなり敗走
 島津隊(300)は退路を遮断され
 敵中に孤立
 敗走する
 宇喜多隊
 小西隊の残兵が
 島津隊内に入り込もうとするのを
 銃口を向けて追い払い
 自軍の秩序を守る一方で
 正面の伊勢街道からの撤退を目指し
 前方の敵の大軍の中を突破を決意
 島津軍は先陣を
 豊久、右備を山田有栄、本陣を義弘
 で突撃開始
 島津隊は東軍の前衛部隊である
 福島正則隊を突破
 正則は島津軍への無理な追走を禁じたが
 福島正之は追撃し
 豊久と激戦を繰り広げた
 後、
 島津軍は家康の本陣に迫ったところで転進
 伊勢街道をひたすら南下
 井伊直政本多忠勝松平忠吉
 らが追撃
 追撃隊の大将だった
 伊井直政は重傷を負い
 松平忠吉も負傷したが
 島津軍を徳川軍は追撃し続けた
 ↓↑
 足止め隊戦法
 甥・豊久
 義弘の家老
 長寿院盛淳らが義弘の身代わりとなり
 多くの将兵も犠牲になった
 家康から追撃中止の命で
 義弘自身はかろうじて敵中突破に成功
 大和
 三輪山
 平等寺に逃げ込んで
 十一月二十八日まで
 七十日間滞在後
 帰国
 義弘主従は
 平等寺社侶たちからの援助によって
 難波の港より薩摩へと帰還
 その際に
 義弘は
 摂津国住吉に逃れていた妻を救出
 立花宗茂らと合流
 共に海路から薩摩に帰還
 生きて薩摩に戻ったのは
 300人のうち80数名
 一方で
 川上忠兄を家康の陣に
 伊勢貞成を長束正家の陣に派遣し
 撤退の挨拶を行わせた
 退却戦は
 「島津の退き口」
 と呼ばれ全国に名を轟かせた
 ↓↑
 島津家の存続
 薩摩に戻った義弘は
 徳川に対する武備を国境で固め
 一方で
 徳川との和平交渉
 義弘は
 和平交渉の仲介を
 関ヶ原で重傷を負わせた
 井伊直政に依頼
 直政は徳川・島津の講和のために奔走
 福島正則の尽力もあった
 一方で
 近衛前久
 家康との仲介に当たった・・・
 ↓↑
 慶長五年九月三十日(1600年11月5日)
 当主出頭要請を拒み
 軍備を増強し続ける島津家の態度に
 怒った家康は
 九州諸大名に島津討伐軍を号令
 黒田、加藤、鍋島勢
 を加えた3万の軍勢を島津討伐に向かわせるが
 家康は攻撃を命令できず膠着
 関ヶ原に主力を送らなかった
 島津家には1万を越す兵力が健在で
 苦戦すれば
 家康に不満を持つ
 外様大名が再び反旗を翻す恐れがあった
 島津家に圧力をかけていた最中
 薩摩沖で幕府が国家運営で行っていた
 明との貿易船2隻が襲われ沈められ
 黒幕は島津家とされて
 武力で島津家を潰せば
 旧臣や敗残兵が
 海賊集団を結成し
 貿易による経済的基盤の
 徳川家に対する脅しをかけた
 家康は
 十一月十二日(12月17日)
 島津討伐軍撤退を命令
 慶長七年(1602年)
 家康は島津本領安堵を決定
 島津氏に対する本領の安堵
 忠恒への家督譲渡が無事承認・・・
 ↓↑
 後
 大隅
 加治木に隠居
 元和五年七月二十一日(1619年8月30日)
 死去・享年85(満83歳没)
 十三名の家臣が殉死
 辞世の歌
 「天地(あめつち)の
  開けぬ先の 我なれば
  生くるにもなし
  死するにもなし」
 「春秋の 花も紅葉も 留まらず
  人も空しき 関路なりけり」
 原文は
 by wikipedia.org/wiki/島津
ーーーーー
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