「鶴鳴(カクメイ)」・・・ケーン、ケーン・・・?

 2759日目・文字霊日記

 「学生、市民の鶴鳴(カクメイ)」・・・???
 ↓↑
 ・・・「未確認情報拡散コッカ」・・・「UFO」・・・
 ・・・「迷翻訳唇文コッカ」・・・・・「蜃文・犯文」・・・
 ・・・「併合望んでモンクあり」・・・
 ・・・「等治されてイクサあり」・・・
 ・・・「傀儡させられサクシュあり」・・・
 ・・・「サギにメグマれてコンキュウあり」・・・
 ・・・「大法螺吹き」は「文化・芸術」カモ・・・
 ・・・「自作自演」の「文にアルは氵の寅(韻・虎・彪)」・・・?
 1953年1月24日(66)
 ↓↑
 壬辰(乙 癸 戊)印綬・正財 冠帯
 癸丑(癸 辛 己)偏印・偏財  衰
 乙亥(戊 甲 壬)  ・印綬  死
  申酉空亡
 2019 庚申 己亥
     正官 偏財
      胎  死
 ↓↑
 1961-1953=8
 「4月19日」って?・・・あれはナンだったんだか・・・?
 まだ八か・・・
 ↓↑ ↓↑
 ・・・テルミドール(Thermidor). テルミドール(暦)
    フランス革命革命暦
    熱月(7/19(20)~ 8/17(18)頃)・・・・熱の月
    て   るみどうる
    氐(弖)留見同 留?
    照御堂留?

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 テルミドールのクーデター
 1794年7月27日
 (フランス革命暦
  II年テルミドール9日
 フランス革命
 ジャコバン派独裁に対立する
 クーデター
 マクシミリアン・ロベスピエール
 ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト
 ジョルジュ・クートン
 フィリップ=フランソワ=ジョゼフ・ル・バ
 らが失脚、処刑、自殺
 テルミドール9日の反動
 テルミドール反動
 テルミドール
 革命時制定された
 フランス革命暦
 「熱月」
 実質的にフランス革命は終焉
 市民革命は頓挫
 革命暦
 ナポレオン・ボナパルト
 により廃止
 ↓↑
 1793年~1794年
 フランス内外の戦乱を
 ジャコバン派が収拾後
 1794年春
 エベール派
 と
 ダントン派
 が粛清
 ジャコバン派の一部は
 国民公会の中間派と秘密に協力し
 ロベスピエールを打倒しようとし
 恐怖政治の先鋒として
 パリ以上に弾圧を行っていた
 地方派遣議員
 (ジョゼフ・フーシェ
  ポール・バラス
  ジャン=ランベール・タリアンら)
 は
 ロベスピエール
 の追及を恐れて先制攻撃を画策
 恐怖政治の執行の
 公安委員会も
 ロベスピエール
 (ロベスピエールサン=ジュストクートン
 穏健派
 (ラザール・カルノーなど)
 恐怖政治強硬派
 (ジャック・ニコラ・ビョー=ヴァレンヌ
  ジャン=マリー・コロー・デルボワなど)
 に分裂
 ロベスピエール
 6月半ばから7月26日まで
 公の席に姿を見せず
 反対派の陰謀は進行
 7月22日
 公安委員会
 と
 保安委員会
 による合同会議が開かれたが
 ロベスピエール
 サン=ジュストの忠告も無視
 ↓↑
 7月26日(テルミドール8日)
 国民公会
 ロベスピエール
 サン=ジュストらに諮らないまま
 「粛清されなければならない議員がいる」
 と演説
 議員達はその名前を言うように要求
 ロベスピエールは拒否
 攻撃の対象が誰なのかわからなく
 全ての議員が震えあがり
 反対派たちの結束・・・
 ↓↑
 その晩
 ロベスピエール
 ジャコバン・クラブで演説
 「諸君がいま聞いた演説は
  私の最後の遺言である」
 と発言
 ↓↑
 7月27日(テルミドール9日)午前11時
 ロベスピエールらは
 国民公会で正午ごろ
 サン=ジュスト
 「自分は特定の党派など関係ないし
  党派争いを望まない」
 とロベスピエール擁護の演説
 タリアンが
 「昨日同じように
  孤高を
  気取っていた奴がいたはずだ。
  暗幕を切り裂け」
 と野次り
 サン=ジュストの演説を打ち切らせ
 議長の
 コロー・デルボワは繰り返し発言を求める
 ロベスピエールらの発言を阻止
 議場から
 「暴君を倒せ」と野次
 タリアンは
 ロベスピエール派の逮捕を要求
 午後3時
 ルーシェが逮捕について採決を求め
 ロベスピエール派の
 ロベスピエール
 クートン
 サン=ジュスト
 ル・バ
 ロベスピエールの弟の
 オーギュスタン
 らのプロスクリプティオが決議・・・
 ↓↑
 プロスクリプティオ
 共和政ローマで実施され
 特定の人物を国家の敵として
 法の保護の対象外に置く措置
 その名簿は公示され
 その人物の財産を没収しても
 罪に問われない・・・
 ↓↑
 その後
 パリ市のコミューンが蜂起
 ロベスピエールらはパリ市庁舎に逃げ
 ロベスピエールを守るべく
 パリ市国民軍司令官
 フランソワ・アンリオ
 率いる200人の国民衛兵
    3500人の群集が集結
 国民公会
 ロベスピエール
 コミューンに従うものを
 法の外に置くことを決定
 深夜
 国民衛兵は引き上げ
 国民公会が派遣した
 ポール・バラス率いる軍隊は
 市庁舎を占領
 ル・バはピストル自殺
 ロベスピエールも自殺を失敗し顎に重傷
 後
 ロベスピエールらは
 コンシェルジュリー牢獄に連行
 ↓↑
 7月28日
 ロベスピエールの指示に従って
 反対派を断頭台に送り込んでいた
 革命裁判所の裁判長
 アントワーヌ・フーキエ=タンヴィル
 は
 ロベスピエール
 らに死刑判決を下し
 午後6時
 ロベスピエール兄弟
 サン・ジュスト
 アンリオ
 ら22人は革命広場でギロチンにより処刑
 翌日
 70人のコミューンのメンバーが処刑
 その翌日に
 12人が同じ罪状で処刑
 ↓↑
 さらに
 ジャン=バティスト・カリエ
 フーキエ=タンヴィル
 らジャコバン派の生き残りは
 同年から翌年にかけて次々に逮捕され、死刑
 クーデターに加わっていた
 ビョー=ヴァレンヌ
 コロー・デルボワ
 も公安委員として
 恐怖政治を推進した責任を問われ
 ギアナ流罪
 ↓↑
 7月28日
 ロベスピエール
 の死刑執行
 恐怖政治終了
ーーーーー
 四月革命・・・???
 1960年3月
 第4代大統領選挙(3.15不正選挙)
 不正選挙に反発した
 学生や市民による民衆デモにより
 第四代韓国大統領
 李承晩(当時84歳)
 が下野
 ↓↑
 1960年
 4月19日
 大規模なデモが発生
 4.19革命・・・???
 ↓↑
 1961年5月16日
 朴正煕少将
 らによる
 「5・16軍事クーデター」
 軍政時代に突入・・・
 ↓↑
 1956年
 大統領選挙で
 野党・民主党の大統領候補
 申翼煕が遊説中急逝
 与党の
 李承晩候補が勝利
 副大統領選挙で
 民主党
 張勉候補が弔い票などを集め
 自由党
 李起鵬候補を押さえて当選
 政権内に
 与野党が共存
 李承晩は
 自由党の政権継続をすべく
 四捨五入改憲
 など
 大統領権限の強化と
 張勉副大統領への
 干渉
 進歩党事件など
 民衆運動の弾圧
 独裁色を強めた
 ↓↑
 3.15不正選挙
 自由党
 李承晩大統領を
 正大統領候補
 李大統領側近の
 李起鵬を
 副大統領候補に擁し選挙戦
 野党の
 民主党
 趙炳玉
 と
 張勉
 を正副大統領候補に擁し選挙戦
 選挙運動最中の
 2月15日
 趙炳玉が死去
 李承晩の4選は半ば確実となった
 副大統領選挙は
 張が優勢なまま選挙戦が進み
 前回大統領選同様に
 与野党で正副大統領を分け合う事態が再来
 政府・与党は
 官僚機構や御用組織・暴力団まで動員し
 不正選挙
 李起鵬を当選させるまでこぎつけ
 対して
 民主党
 本選挙は不正選挙で無効と宣言
 ↓↑
 3・15馬山事件
 3月15日
 大統領選挙投票日当日
 慶尚南道馬山(マサン・昌原市)で
 民主党側の投票立会人が
 強制的に投票所から追い出され
 学生と市民が
 大統領選の無効を主張して街頭デモ
 警察はデモ参加者に
 無差別発砲
 8名が死亡
 50名余が負傷
 デモは鎮圧
 (第一次馬山事件)
 デモに参加して行方不明だった
 馬山商業高校学生の
 金朱烈
 27日後の4月11日
 馬山沖の海上で目に
 催涙弾が突き刺さった遺体で発見
 学生・市民が再び街頭デモ
 (第二次馬山事件)
 ↓↑
 4月18日
 高麗大デモ
 第2次馬山事件で
 各地で学生によるデモが発生
 4月18日
 首都ソウル市
 高麗大学校の学生約3,500名が
 馬山事件で
 逮捕された学生の
 釈放と学園の自由などを求めてデモ行進
 後
 デモ隊は国会議事堂(旧京城府民館)前で座り込み
 午後7時頃には大学に戻り始めていたが
 デモ隊が鍾路4街付近に差し掛かった時
 景武台の警護責任者
 郭永周から指令を受けた政治ゴロ
 李丁載
 林和秀
 などの暴徒100名余りがデモ隊を襲い
 約20名余りの学生が重軽傷を負う
 襲撃は学生や市民の反発を招き
 4月革命の契機となった
 ↓↑
 4月革命
 4月19日学生デモ
 ソウル大学
 延世大学校
 中央大学
 など
 ソウル市内の
 大学生数万名が決起
 デモ行進
 正午に
 大統領官邸
 景武台を包囲
 一部のデモ隊は
 副大統領候補で
 李承晩大統領の側近
 李起鵬の自宅を占拠
 デモには中学高校生や一部市民も参加
 午後2時半頃
 デモ隊の規模は20万名余り
 李承晩大統領
 の退陣と不正選挙無効を訴えた
 ↓↑
 デモ隊に対し
 警察は
 景武台や中央庁付近で
 無差別発砲を行い
 多数の死傷者が出た
 激高した一部のデモ隊は
 市内各所の
 警察官派出所
 与党系の新聞である
 ソウル新聞社屋
 反共会館(3・15不正選挙の大韓反共青年団本部)
 を焼打
 全国各地
 釜山、光州、大邱、清州、仁川
 など各地方都市でも
 数千名余りの学生デモ隊が警官隊と衝突
 ↓↑
 デモによる犠牲者の数は
 死者183人
 負傷者6,259人
 李政権は
 19日午後5時
 ソウル・釜山・大邱・光州の各都市に
 戒厳令を布告
 軍は政治的中立を維持
 デモ隊鎮圧の積極的行動は行わなかった
 ↓↑
 4月25日教授団デモ
 4月21日
 国務委員(閣僚)
 自由党党務委員が
 4・19デモの責任を取る形で一括して辞表提出
 23日
 副大統領選挙の当選者である
 李起鵬が当選辞退を考慮を表明
 張勉副大統領が辞任を表明
 4月25日
 ソウル大学
 全国27大学の教授400余名が集結
 大統領
 国会議員
 最高裁判事の辞任
 正副大統領再選挙の実施
 不正選挙の処断を求める時局宣言文を採択後
 「4・19義挙で倒れた学生の血に報いよ」
 という横断幕を掲げて、デモ行進
 学生たちによる
 反政府デモは再び活発化
 ↓↑
 4・26デモ
 李承晩大統領辞任
 学生と市民は
 「再選挙の実施」
 「現政権の退陣」
 などのスローガンでデモ行進
 パゴダ公園の
 李承晩大統領の銅像
 引きずり倒された
 ↓↑
 国防部長官
 金貞烈
 外相
 許政
 が
 李大統領に対して辞任を説得
 26日
 宋尭讃
 戒厳司令官(陸軍参謀総長
 の仲介によって
 大統領とデモ隊代表による会談の場で
 下野することを表明
 同日午前10時頃
 ラジオを通じて辞任を発表
 国会で
 午後緊急本会議を開き
 李大統領の下野を要求する決議案を
 満場一致で可決
 翌27日
 李大統領は公報室を通じて
 辞任を正式発表し
 国会に辞表提出
 12年間の独裁が終焉
 ↓↑
 大統領辞任後
 李大統領夫妻は
 梨花荘(李承晩の私邸)に居を移した後
 5月29日
 夫妻揃ってハワイへと亡命
 李起鵬は
 景武台内の女性秘書官舎に身を隠していたが
 4月28日
 一家心中
 不正選挙に関連した
 閣僚9人
 自由党幹部13人
 が逮捕
 デモ隊へ向けての発砲を命じた
 崔仁圭内務長官
 郭永周大統領警護室長
 暴力団幹部
 らは死刑・・・
 ↓↑
 革命後
 4月24日
 李大統領によって
 外相に任命された
 許政を首班とする
 暫定政府が
 4月28日に発足
 6月15日に
 議院内閣制を採った
 第二共和国憲法が成立
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 ???・・・
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 戊子(壬  癸)偏官・比肩 帝旺
 庚申(戊 壬 庚)偏印・比肩 長生
 壬申(戊 壬 庚)  ・比肩 長生
 戌亥空亡
 丙午(丙 己 丁)偏財・偏財  胎
 ↓↑
 大運
 2019 癸丑 劫財  衰
     己亥 正官 建禄
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 己未(丁 乙 己)偏官・偏財  墓
 戊辰(乙 癸 戊)正官・食神  養
 癸巳(戊 庚 丙)  ・正官  胎
 午未空亡
 戊午(丙 己 丁)正官・正財  絶
 ↓↑
 大運
 2019 戊寅 正官 沐浴
己亥 偏官 帝旺
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 己亥(戊甲壬)偏印・傷官 沐浴
 辛未(丁乙己)比肩・偏印  衰
 辛未(丁乙己)  ・偏印  衰
 甲午(丙己丁)正財・偏官  病
ーーーーーーー
 ・・・???・・・