「八咫鏡」、「八咫烏⇔八咫の太陽(日=○=円)・・・はカガミ・・・

 2794日目・文字霊日記
 圓=囗+員・ツブラオミ=圓大臣以降の「圓+α」の人名
 ↓↑  ↓↑
 ハ鏡=捌鏡=Ⅷミラー(Ⅷ mirror )=Broken bronze mirror
 ハ鏡=破鏡=壊されたカガミ=Broken copper mirror=破鏡
 は鏡=「波・葉・歯・刃・派・ha」の「カガミ」
    ・・・八咫鏡(やたのかがみ)
     Yata no Kagami (the eight-span mirror; one of the Imperial regalia)
    壊されたカガミ(かがみ=鑑・各務・加賀見・香我美)
                鑑=歴史物語=大鑑・今鑑・水鑑・増鑑
    日本の八咫鏡は円周8咫、すなわち径2尺という意味である・・・?
    The Japanese Yata no Kagami
     (the eight-span mirror; one of the Imperial regalia)
    has 8 ata of circumference,
    in other words,
    the diameter of the mirror is 2 shaku (23.04 centimeters).
    (by ejje.weblio.jp/content/八咫鏡
      Weblio 辞書 > 英和辞典・和英辞典)
 ↓↑  ↓↑     ↓↑
 「咫(シ、zhǐ) 」=古代の長さの単位
 「中婦人手長八寸、謂之咫・周尺也」
  『説文解字(九、尺部「咫」)』
 「周代の尺で8寸を咫という」
  ・・一尺=八寸=咫=尺+只=尺+口+ハ・・・ハ≠八
  只=ロハ=ろは=ただ・それのみ・それだけ
  只管打坐=雑念を捨てて
       脇目(わきめ)も振(ふら)ず
       座禅を組むこと
      「只管」はひたすら、一心に
      「打坐」は座禅
 「尺」・・・尺=尸(シ・しかばね・かばね)
         乀(フツ・左上から右下に揺れ動く・振れ動く)   
 「周制、寸・尺・咫・尋・常・仞
  諸度量、皆以人之体為法」
 ↓↑
  「一束(ひとつか)」
 片手の握りこぶし1つ分の幅
 「束の間」
 ↓↑
 「一咫(ひとあた)」
 手の平の付け根から中指の先端までの長さ
 親指と中指とを開いた長さとほぼ同じ
 ↓↑
 「フィート」
 30.48cm
 足の爪先(つま先)から
 踵(かかと・くびす・きびす)まで
 ↓↑
 「尺(しゃく)」
 30.3cm
 「尺」=手の親指と人差指を広げた形
     親指の先から中指の先までの長さ
 ↓↑
 日本
 「あた-る」=動詞「あつ(当)・あてる」
        を名詞化したもの
        手を開いて測ることを意味
        手を開いたときの
        中指の先から
        親指の先までの長さを
        「咫」とし
        尺の元々の定義と同じ
 ↓↑
 「日本書紀」では「咫」と記録
 「古事 記」では「尺」と記録(八尺鏡
 「八咫鏡」、「八咫烏⇔八咫の太陽(日=○=円)」
 「八咫」・・・咫=尺+只
 ↓↑
 「あた=さか」
 「八尺瓊勾玉・・・八尺の胎児の目
          鳴門の渦の穴(窪・凹)
          颱風の渦の穴(窪・凹)
         「摺り鉢・擂り鉢」の形
        「碾き臼(碓)・挽き臼(碓)」
            小碓命・   大碓命
            小=ハ+亅   大=一+人
        「搗き臼・突き臼」
        「付き烏頭・月卯州(宇須・宇受)」
 ↓↑         烏帽子(えぼし)・山伏・烏天狗
 (やさかにのまがたま)」
  八逆 児の勾玉?
  耶(邪・乎)佐賀児の曲魂?
 ↓↑
 「尺=あた=さか」
 「八咫鏡
 ↓↑
 『説文解字』にいう
 「周」を
 「円周」と解釈し
 「咫=円周の単位」で
 「円周率=約 3.14」 であり
 「円周率=約 3.2」に近似とすると
 「径 一 尺」の
  円の
 「円周=3.2 尺」となり
  これを
 「四 咫」とした・・・という説?
  日本の
 「八咫鏡」は
 「円周 八 咫」?・・・2.547x3.14=7.997
 すなわち
 「径 二 尺」という意味・・・?
    2.547x3.14=7.997≒円周 八 咫
 ↓↑
 「一尺=八寸」⇔「二尺=十六寸」
 ↓↑
 直径が 2cm の円周を求める
 円周率は 3.14
 公式
 「円周=直径×円周率」
 「円周= 2 × 3.14=6.28(cm)
        ・・・六月 弐拾八日?
           陸解通弐足捌比?
 ↓↑
 直径が 2.5cm の円周を求める
 円周率は 3.14
 円周= 2.5 × 3.14=7.85≒円周 八 咫
     7.85=七(漆)点(典)八(捌)五(伍)
 ↓↑
 「後漢の尺=23.04cm」
  ・・一尺=八寸=23.04÷8=2.88
       一寸≒2.88≒3
  直径一尺=八寸=23x3.14=72.22cm
       72.22=七拾弐点弐拾弐
      漆(うるし)拾う二典拾う弐(に)
 ↓↑
 「八咫鏡」は
 「直径 46cm」・・ 46x3.14=144.44cm          
  前後の
 「円鏡」を指し
  福岡県糸島市
  平原遺跡から
 「五面」
  の大型
 「内行花文鏡」
  が出土・・・???

f:id:naie:20191012155654j:plain

    銅=copper=カッパ(河童・合羽・喝破・Κ)=copper
     =銅=銅 ・ 赤銅色 ・ 銅貨 ・ 銅器 ・ 大釜・・・大蝦蟇・大鎌
     =銅=原子番号29の元素・元素記号は Cu
        周期表では金、銀と同じく
        11族に属する遷移金属
    和銅(ニギアカガネ)=秩父で銅塊が発見され朝廷に献上
               改元
    708年(戊申)~715(乙卯)年までの期間
    天皇元明女帝(阿閉)
    和銅五年(壬子)一月 太安萬侶「古事記」完成、撰上
 ↓↑  ↓↑  
    和銅元(戊申)年改元
    慶雲五年一月十一日
   (ユリウス暦708/1/28)
     二月
     平城の地に新都造営詔
     十月、伊勢神宮平城宮造営を告
    和銅元(戊申)年五月
     和同開珎鋳造。
    和銅三(庚戌)年三月
     藤原京から平城京に遷都
     藤原氏興福寺の造営を発願
    和銅四(辛亥)年十月
     蓄銭叙位令
    和銅五(壬子)年一月
     太安万侶古事記」完成、撰上
    和銅五(壬子) 出羽国を建てる・・・出葉句爾?
    和銅六(癸丑)年四月三日
     丹後国・・・単語句爾
     美作国・・・「みまさか=見真逆」句爾
     大隅国・・・「大墨・大澄・大須見」句爾
    和銅六(癸丑)年五月
     諸国に「風土記」編纂を勅
     郡・郷名に好字付与の勅
    和銅七(甲寅)年六月
     首皇子聖武天皇)の立太子
     九月
     元明天皇譲位
     氷高内親王元正天皇)即位
    和銅八(乙卯)年九月二日
   (ユリウス暦715年10月3日)
     霊亀改元

f:id:naie:20191012155649j:plain

 圓=囗+員=円=冂+丄
   囗+口+貝
   エン
   まるい
   つぶら
   まどか
   まろやか
   まるい形・円形
   角のないさま
   つぶら
   まるくて可愛らしいさま
   まったし・完全な
   欠けているところがない
   日本の貨幣単位
   えん・そのあたり一帯
   ↓↑
   人名読み・名のり
   かず・つぶら・のぶ
   まど・まどか
   まる・みつ
ーー↓↑ーー
 円滑洒脱(えんかつしゃだつ)
  問題を起こすことなく
  物事を順調に処理すること
 ↓↑
 円孔方木(えんこうほうぼく)
  物事が食い違っていて
  上手く噛み合わないこと
 ↓↑
 円首方足(えんしゅほうそく)
 人間
 「円首」は丸い頭
 「方足」は四角い足
  天と頭はどちらも丸く
  大地と足はどちらも四角い
  人と天地が似ている
  類義語
 円頭方足(えんとうほうそく)
 円顱方趾(えんろほうし)
 「円顱」は丸い頭
 「方趾」は四角い足
 方趾円顱(ほうしえんろ)
 ↓↑
 円頂黒衣(えんちょうこくい)
 僧侶の姿
 「円頂」は髪を剃って丸めた頭
 「黒衣」は墨で染めた僧侶の服、僧衣
 ↓↑
 円転滑脱(えんてんかつだつ)
  物事を要領よく処理していく様子
  言葉遣いや行動が自在で
  相手の感情を刺激せずに応対し
  争い事を起こさないこと
 「円転」は角立ってなく、滑らかに転がる意
  物事が停滞することなく進むことのたとえ
 「滑脱」は滞ることなく
  状況に合わせて自在に変化するという意
  失敗や間違いのない応対
 ↓↑
 円転自在(えんてんじざい)
  言葉や行動を思うように
  淀みなく行われること
 「円転」は淀みなく動くこと
 ↓↑
 円頓止観(えんどんしかん)
  人格を完成した完璧な悟りの境地
  すべての物事を完全に備え
  雑念がなく
  直ちに悟りに到る境地
  すべての存在が
  そのまま真実の理法に
  かなうことを正しく観察すること
  仏教の天台宗
  「漸次止観」
  「不定止観」と合わせ
  「三種止観」と呼ばれる
  類義語 摩訶止観
 ↓↑
 円融三諦(えんにゅうさんだい)
  仏教
  空、仮、中
  の三つの心理が
  それぞれの立場を保ちながら
  互いに溶け合っている状態
  「円融」はお互いに融合しているが
  それぞれ立場を保ちつつ
  妨げになっていないこと
 「三諦」は空、仮、中の三つの真理
  天台宗が説く三つの真理
  全てのものには
  実体が存在しないという「空」
  全てのものは
  因縁によって存在するという「仮」
  それら二つを超越して存在している
 「中」のこと
 ↓↑
 円木警枕(えんぼくけいちん)
  苦労しながらも力を尽くして
  勉学に励むこと。
 「円木」は丸太。
 「警枕」は深く寝入ることを防ぐための枕
  枕を転がりやすい丸太にし
  深く眠り込むと目が覚めるようにし
  寝る間を惜しんで
  勉学に励むという意
  宋の
  司馬光が丸太を枕にして勉学に励んだ故事。
  出典『資治通鑑後梁紀)』
 ↓↑
 円満具足(えんまんぐそく)
 何一つ欠ける事なく、満ち足りていること
 「円満」
 「具足」
 どちらも不足することなく
 十分に備わっているという意
 ↓↑
 円融滑脱(えんゆうかつだつ)
  物事を要領よく処理していく様子
  言葉遣いや行動が自在で
  相手の感情を刺激せずに応対し
  争い事を起こさないこと
  失敗や間違いのない応対をすること
 ↓↑
 円顱方址(えんろほうし)
 円顱方趾(えんろほうし)
 ↓↑
 水随方円(すいずいほうえん)
 民の善悪は
 政治を行うものによって感化される
 人は環境や人間関係次第で
 善悪のどちらにも感化されるということ
 「随」は従うこと
 「方円」は四角いものと円いもの
 水は容器の形に従って
 四角にでも円にでもなるという意
 出典 『韓非子(外儲説・左上)』
 ↓↑
 智円行方(ちえんこうほう)
  さまざまな深い知識があり
  規律正しいこと
 「智円」はさまざまな知識
 「行方」は行いが正しく、礼儀正しいこと
 『淮南子(主術訓)』
 『文子(微明)』
 ↓↑
 破鏡重円(はきょうじゅうえん)
 ↓↑         銅鏡の反射面は
           白銀色or黄金色の金属光沢を呈していた
           直孤文鏡
           日本独自の銅鏡
           新山古墳から3面の出土
           図像は内行花文鏡を基に
           四葉座型の鈕座を除いて
           全ての図像を
           直線と弧で象ったもの
           鈕座の周囲に内行花文を八葉巡らせ
           その外周を幾何学的文様が巡らせてある
          「京師」=都の鏡づくり師
      ・・・月=肉=ジク=字句破壊の裏側
         素文縁直弧文鏡
         破鏡・・・銅鏡破片?
         奈良県桜井茶臼山古墳から
         銅鏡の破片が多数出土
 ↓↑       ↓↑
      東京産
      2017.11.7 09:15
      1世紀後半頃の
      中国で作られたとみられる
      銅鏡の破片が
      島根県出雲市弥生時代(2世紀頃)の
      集落遺跡から見つかり
      同市文化財課が6日発表した
      意図的に割られた
     「破鏡」とみられ
      弥生時代の遺構から中国製鏡が出土したのは
      島根県内では初めて
      銅鏡片は5・3センチ×1・8センチで
      文様の特徴から後漢時代(1世紀後半頃)の
      中国大陸で作られた
     「内行(ないこう)花文鏡(かもんきょう)」。
      周辺で同様の破片が見つかっていないことから
      別の場所で
      意図的に割られ
      2世紀頃(弥生時代後期前半)に
      この集落へ持ち込まれたとみられる
      同課では
      本来は直径15センチ前後の鏡だったと推定
      1枚の鏡を割った鏡の破片(破鏡(はきょう))

f:id:naie:20191012155644j:plain

 ↓↑    ↓↑
 一度別れた夫婦が
 また一緒になること
 離散していた夫婦がまた会うこと
 割れた円い鏡が
 元の円い鏡に戻るという意
 徐徳は戦乱の中で
 鏡を二つに割って
 後に再会するために
 妻と一つずつ持って離
 散し
 再会できたという故事
 出典 『太平記』一六六引『本事詩』

f:id:naie:20191012155640j:plain ↓↑

 福徳円満(ふくとくえんまん)
  様々なものに恵まれ
  何一つ不満がないこと
 「福徳」は幸福と財産があって
  不自由しないこと。
 ↓↑
  方址円顱(ほうしえんろ)
  方趾円顱(ほうしえんろ)
 ↓↑
 方底円蓋(ほうていえんがい)
  物事が上手くかみ合わないこと
 「方」は四角形。
 「円」は円形。
  底が四角形の容器に
    円形の蓋
 出典 『顔氏家訓(兄弟)』
 ↓↑
 老成円熟(ろうせいえんじゅく)
  経験が豊富で
  人格や技能が十分に熟練していること
 「老成」は多くの経験と、物事に長けていること
 「円熟」は人格や技能が熟練していること
 ↓↑
 挨拶より円札
 あまり円きはまろびやすし
 食後の一睡、万病円
 大団円
 水は方円の器に随う
ーー↓↑ーー
 満月・・・月の女神アルテミス
 月の裏側・・・?
 六本指・・・かぐや姫モナリザ)・秀吉・・・?
ーー↓↑ーー
 円行(えんぎょう)
 延暦十八年(799年)
 ~
 仁寿二年三月六日(852年3月29日)
 真言宗の僧
 出身は京都
 入唐八家
 (最澄空海・常暁
  円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)
 の一人
 元興寺
 歳栄に師事し
 華厳宗の僧として
 得度・受戒
 823年(弘仁十四年)
 空海から
 金剛界胎蔵界両部の大法を受け
 杲隣(ごうりん)から
 灌頂を受けた
 実恵の推挙により
 入唐請益僧(にっとうしょうやくそう)
 838年(承和五年)
 円仁・円載・常暁らと唐に渡った
 青龍寺
 義真から法を受け
 839年(承和六年)
 帰国し「請来目録」を奉った
 後
 勅命により
 山城国
 霊巌寺を開創
 天王寺の初代別当に任じられた
 播磨国
 太山寺の開祖
ーー↓↑ーー
 円仁(えんにん)
 延暦十三年(794年)
 ~
 貞観六年一月十四日(864年2月24日)
 第三代天台座主
 慈覚大師(じかくだいし)
 入唐八家
 (最澄空海・常暁
  円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)
 の一人
 下野国の生まれ
 出自は
 壬生氏
 ↓↑
 下野国
 安蘇山・・・?
 裾野脇の湖畔
 みかもノ山の
 越奈良の須(美加保の関、みかもの崎)
 壬生氏の子として生まれた
 9歳で大慈寺で修行
 大慈寺の師
 広智は
 鑑真の直弟子
 道忠の弟子で
 多くの弟子を
 最澄に師事させていた
 ↓↑
 壬生寺
 (下都賀郡壬生町大師町)
 美加保ノ関
 (栃木市藤岡町三鴨の都賀字館・佐野市越名)
 安蘇山
 麓手洗窪
 (安蘇郡下津原・栃木市岩舟町下津原)
 などの説・・・
 美可母ノ山
 ↓↑
 円仁ゆかりの
 安蘇の川原
 美加保ノ関を沼越しに眺める名所
 安蘇山の麓、手洗窪
 ↓↑
 大同三(808年)
 15歳
 広智に連れられ
 比叡山延暦寺に上り
 最澄に師事
 奈良仏教の反撃
 真言密教の興隆
 という二重の障壁の中で
 天台宗
 最澄が止観を学ばせた
 弟子10人のうち
 師の代講
 を任せられた
 ↓↑
 弘仁五年(814年)
 言試(国家試験)に合格
 翌年21歳で得度(出家)
 弘仁七年(816年)
 23歳で三戒壇の一つ
 東大寺
 具足戒(小乗250戒)
 を受け
 この年
 最澄の東国巡遊に従って
 故郷下野を訪れる
 弘仁八年(817年)三月六日
 大乗戒を
 教授師として諸弟子に授け
 自らも大乗戒を受ける
 弘仁十三年(822年)
 29歳で最澄から
 一心三観の妙義を授けられた
 ↓↑
 承和二年(836年)
 1回目の渡航失敗
 翌承和三年(837年)
 2回目の渡航も失敗
 承和五年(838年)六月十三日
 博多津を出港
 『入唐求法巡礼行記』をこの日から記録
 志賀島から
 揚州東梁豊村まで
 8日間で渡海
 「四つの船」のうち1艘は遭難
 円仁の船はコントロールが利かず
 渚に乗り上げ
 船は全壊での上陸
 『行記』838年(開成四年)七月二日条)
 ↓↑
 上陸日
 唐の開成4年7月2日
 日本の承和5年7月2日
 と日付が一致・・・
 ↓↑
 在唐新羅人社会
 山東半島新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅人社会の助けを借りて
 唐残留
 長安への求法
 五台山から徒歩53日間
 大興善寺
 元政和尚から灌頂を受け
 金剛界大法を授き
 青竜寺の義真からも灌頂を受け
 胎蔵界・盧遮那経大法と
 蘇悉地大法を授く
 金剛界曼荼羅長安の絵師
 王恵に代価6千文で描かせる
 描かせていた曼荼羅が完成する
 (『行記』840年(開成5年)12月22日条)。
 ↓↑
 唐朝に帰国を百余度も願い出るが拒否される
 入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子
 惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)
 サンスクリット語を学び
 仏典を多数書写
 842年(会昌2年)10月
 「会昌の廃仏」に遭い
 外国人僧の国外追放で帰国(会昌5年2月)
 強制的に還俗させられ
 再度剃髪したのは帰国直前
 多くの長安住人の送別を受け
 送別人の多くは
 唐高官の仏教徒
 李元佐のほか僧侶及び長安在留の新羅人たち
 107日間、山東半島新羅人の町・赤山まで歩いて戻った
 この際、
 新羅人の唐役人にして
 張宝高の部下の将
 張詠が
 円仁のために
 唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが
 密告に遭い、この船では帰れなくなった
 ↓↑
  「円仁が無事生きている」
 日本に伝わっていた
 比叡山から弟子の
 性海が
 円仁を迎えに唐にやってき
 師と再会
 楚州の
 新羅人約語(通訳)
 劉慎言に帰国の便船探しを頼み
 彼の見つけた新羅商人
 金珍の貿易船に便乗して帰国
 円仁は
 劉慎言に
 沙金弐両と大坂腰帯を贈った
 朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅
 博多津に到着
 鴻臚館に入った
 (『行記』承和14年(847年)9月19日条)
 日本政府は
 円仁を無事連れ帰ってきた
 金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し
 9年6ヶ月に及んだ日記
 『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の記述を終えている
 (『行記』承和14年(847年)12月14日条)。54歳
 9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間
 書き綴った日記が
 『入唐求法巡礼行記』
 時の皇帝
 武宗による仏教弾圧である
 「会昌の廃仏」を伝え
 ライシャワーの研究により
 日本でも著名になり
 欧米でも知られるようになる
 帰国後
 目黒不動
 瀧泉寺
 山形市にある
 立石寺
 松島の
 瑞巌寺を開いた・・・
 慈覚大師円仁が
 開山したり再興したりしたと伝わる寺は
 関東に209寺
 東北に331寺余
 浅草の浅草寺もそのひとつ(
 このほか
 北海道にも開基伝承が存在する
 有珠善光寺
 ↓↑
 後に
 円仁派は山門派と称された
 円珍は寺門派となり
 両者は長期にわたり対立関係になった
 ↓↑
 仁寿四年(854年)四月三日
 円仁は61歳で
 第3代延暦寺座主に任命された
ーー↓↑ーー
 円珍常用漢字
 圓珍(旧字体
 圓珎(古文書、古記録表記)
 ↓↑
 円珍(えんちん)
 弘仁五年三月十五日
 (814年4月8日)
 ~
 寛平三年十月二十九日
 (891年12月4日)
 天台宗の僧
 天台寺門宗(寺門派)の宗祖
 諡号は智証大師(智證大師)
 入唐八家
 (最澄空海・常暁
  円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)
 の一人
 ↓↑
 弘仁五年(814年)
 讃岐国香川県
 金倉郷に誕生
 多度郡
 弘田郷の豪族
 佐伯一門
 俗姓は和気
 字は遠塵
 空海弘法大師)の
 甥(もしくは姪の息子)
 生誕地は
 善通寺付近
 15歳で比叡山に登り
 義真に師事
 12年間の籠山行
 ↓↑
 承和十二年(845年)
 役行者の後を慕い
 大峯山葛城山熊野三山を巡礼
 修験道の発展に寄与
 承和十三年(846年)
 延暦寺の学頭
 仁寿三年(853年)
 新羅商人の船で入唐
 途中暴風で
 台湾に漂着
 ↓↑
 天安二年(858年)
 唐商人の船で帰国
 帰国後しばらく
 金倉寺に住み、寺の整備
 後
 比叡山
 山王院に住し
 貞観十年(868年)
 延暦寺
 第五代座主
 園城寺三井寺)を賜り
 伝法灌頂の道場とした
 比叡山を山門派が占拠し
 園城寺
 寺門派の拠点となった
 寛平三年(891年)入寂、享年78歳
ーー↓↑ーー
 円載(えんさい)
 生年不詳~元慶元年(877年)
 平安時代前期の
 天台宗の僧
 出身は大和国
 ↓↑
 日本天台宗の祖
 最澄に師事
 838年(承和五年)
 天台座主
 円澄
 の天台宗義に関する
 疑問50条を携えて
 唐に渡った
 天台山
 広修・維蠲(いけん)の
 「唐決」を得て弟子の
 仁好(にんこう)
 に託して日本に送った
 その後も唐に残り学識を持って
 宣宗の帰依を受け
 855年(斉衡二年)
 円珍とともに
 長安
 青龍寺法全(はっぜん)から灌頂を受けた
 この間
 日本の朝廷から2度にわたり
 黄金の送金を受けた
 864年(貞観六年)
 真如法親王高岳親王
 宗叡
 が長安に到着
 在唐30余年になる
 円載の手配により
 長安西明寺に案内された
 ↓↑
 877年(元慶元年)
 日本へ帰る途中
 船が難破
 遭難死
 ↓↑
 「破戒僧」
 唐に滞在している間
 破戒悪行
 円珍「行歴抄」
 円載との確執が描写
 ↓↑
 円載は
 唐滞在中に
 会昌の廃仏に遭遇
 他の多くの僧と同様に
 強制的に還俗させられ
 妻子も持った
 これが
 「破戒悪行」
 として日本に伝わった・・・
 同時期に唐に滞在していた
 円仁も同様に還俗させられた
 円仁が
 再度剃髪したのは帰国する直前のことで
 円仁は
 円載とちがって
 無事帰国
 ↓↑
 円融・圓結
 エン・イン
 ↓↑
 円融
 仏語
 それぞれの事物が
 その立場を保ちながら一体であり
 互いにとけ合って
 障りのないこと
 ↓↑
 円融天皇
 959年4月12日
 〈天徳三年三月二日〉
 ~
 991年3月1日
 〈正暦二年二月十二日〉
 第64代天皇
 在位
 969年9月27日
 〈安和2年8月13日〉
 ~
 984年9月24日
 〈永観2年8月27日〉)
  諱は守平(もりひら)
 村上天皇の第五皇子
 母は右大臣藤原師輔の娘
 中宮安子
 冷泉天皇の同母弟
 中宮安子
 所生の3番目の皇子
 ・・・参考原文は
 「ウィッキペデア」・・・
ーーーーー
 ???・・・
 ホウケイ・□■・・・エンケイ・○●・・・
 サンカクケイ△▼・・・V・・・
 ・・・形象・・・「ハ・丷」・・・