2779日目・文字霊日記・からのツヅキ

 2779日目・文字霊日記・からのツヅキ

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 by Wikipedia
 郭 淮(カクワイ・? ~255年)
 後漢末期から三国時代
 武将・政治家
 魏に仕えた
 『三国志魏志「満田牽の郭伝」』
   ・・・魏志「満・田・牽・郭・伝」
      戯史「萬・傅・索・書・出務」?
 字は伯済・・・百済
 并州太原郡・・・并の州の太の原の郡
 郭淮の一族
 晋代にはそれぞれ高官
 小説『三国志演義』では
 自分で射た矢を
 ↓↑
 姜維・・・姜維(キョウイ・かんい?)
 ↓↑    建安七年(202年)
      ~
       景元五年一月十八日(264年3月3日)
      魏・蜀漢に仕えた
      字は伯約
      涼州
      天水郡
      冀県の出身
      父は姜冏
      妻は柳氏
 ↓↑    子孫に唐の姜恪
 姜維・・・
 に射返され落命(『三国志演義』)
 ↓↑
 祖父は郭全
 父は 郭縕
 弟は 郭配(賈充・裴秀の妻の父)・郭鎮
 子は 郭統
 孫は 郭正
 甥は 郭奕
 姪は 郭槐(賈南風の母)
 ↓↑
 建安年間(196年~220年)・・・建(たける)を
                 安(やすんじる)
 孝廉・・・孝(十一の了と一)の
      廉(廉価・かど=理由・・・事件のカド
        取り上げるべき事項・理由となる事柄)
 で推挙され
 平原の丞
 曹丕
 が五官将になると
 郭淮
 は召し出され
 門下賊曹
 に加えられたが
 間もなく
 曹操へ付き
 漢中征伐に随行
 漢中制圧後
 夏侯淵の司馬
 としてその地に残り
 劉備に備えた
 劉備軍侵攻の際は病気で不参戦
 219年
 定軍山の戦い
 夏侯淵が討たれると
 郭淮
 は混乱する兵士を取りまとめ
 杜襲
 と協力して
 張郃
 に司令官を代行させ
 劉備の侵攻を防いだ
 曹操は漢中に到着し
 張郃・・・・・・・・張=弓+長
 ↓↑         郃=合+阝
             亼+口+阝
             人+一+口+阝
             コウ
          「郃陽」=陝西省県名
 ↓↑         陝西省を流れる川の名
 に仮節し
 漢中駐留軍の司令官とした上で
 郭淮
 をその司馬に任じた
 ↓↑
 220年
 曹丕
 が王位につき
 郭淮
 は関内侯の爵位を与えられ
 鎮西長史(曹真の長史)に転任
 征羌護軍も兼任し
 張郃・楊秋を監督
 賊を討伐し
 関中に平和
 民衆を安んじた
 ↓↑
 同年
 曹丕(文帝)が
 帝位に就く祝賀に出向いたが
 途上で病気に罹り
 彼が参内した頃には祝宴が行われ
 曹丕は彼を咎め
 古の例を取って非難する曹丕に対し
 郭淮はそれを逆手にとって弁明
 曹丕に気に入られ
 仮の雍州刺史に任命され
 5年後に正式な雍州刺史となった
 羌族らの反乱を鎮圧し
 降伏者が訪れてきた
 予め相手の親族関係などを
 調査してから面会し
 ↓↑
 228年・・・・・・・干支=戊申
           神功皇后摂政二十八年
           皇紀888年
           魏 : 太和二年
           蜀 : 建興六年
           呉 : 黄武七年
         高句麗 : 東川王二年
         新羅 :  奈解王三十三年
         百済 :  仇首王十五年
 蜀漢軍が祁山に侵攻
 郭淮
 上邽に馳せ還った
 諸葛亮
 街亭に
 馬謖を派遣し
 列柳に
 高翔を駐屯させたが
 張郃馬謖
 郭淮が高翔を攻め
 これを破った(街亭の戦い)
 隴西郡の
 羌族
 枹罕で破り
 建威将軍に任命
 ↓↑
 229年
 蜀の
 陳式が武都・陰平を攻撃
 迎撃したが
 諸葛亮自ら
 建威に出陣してきたため敗れ
 両郡を奪われた(諸葛亮伝)
 ↓↑
 230年
 蜀の
 魏延
 羌中に侵攻
 費耀と迎撃に出たが
 陽谿で敗れた(魏延伝)
 ↓↑
 231年
 諸葛亮
 鹵城に攻め
 曹真
 に代わって指揮官となった
 司馬懿の下
 戴陵や費耀とともに
 上邽で
 諸葛亮を迎撃したが敗れた
 (「諸葛亮伝・漢晋春秋」)
 羌族を手懐け兵糧を提供させ
 揚武将軍に任命
 ↓↑
 234年
 斜谷に攻めてきた
 諸葛亮
 蘭坑で屯田を始めた
 長安方面への攻撃計画を見破り
 迎撃して防衛に貢献
 諸葛亮が西方に軍を進めると
 陽遂が攻撃されると予想し
 これを防いだ
 ↓↑
 238年・・・・・
 蜀の
 廖化が守善羌侯の宕蕈を攻撃
 王贇・游奕に廖化を挟撃させた
 郭淮の上奏を受け
 曹叡(明帝)は
 「軍隊の配置は分離を避けるもの」
 として急ぎ詔勅を下したが
 届く前に
 王贇・游奕は廖化に敗れた(「明帝紀」)
 ↓↑
 240年・・・正始元年(240年)
       帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ
       詔書印綬を奉じ
       倭王に拝受させた
 蜀の
 姜維が隴西に侵攻
 これを防いだ
 羌族
 迷当を攻撃
 氐族3000余部を降参させ
 関中に強制移住させた
 左将軍に昇進
 涼州
 休屠胡である
 梁元碧が
 雍州に帰順
 郭淮
 安定郡高平に移住させることを要請
 彼らのために
 西州都尉の職を設置するよう取り計らった
 後に前将軍へ転任となったが
 州の宰領は元通り執り行なった
 ↓↑
 244年・・・正始四年(243年)12月
       倭王は大夫の伊聲耆
       掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣
       掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた
       正始六年(245年)
       難升米に黄幢を授与
       正始八年(247年)
       倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣
       狗奴国との戦いを報告
       魏は張政を倭に派遣し
       難升米に詔書、黄幢を授与
 曹爽
 が蜀征伐の軍を起こす
 郭淮
 も夏侯玄の下で先鋒として従軍
 形勢不利で
 郭淮は味方の軍を脱出させ
 大敗させずに済んだ(興勢の役)
 帰還後、仮節された
 ↓↑
 247年~248年・・・卑弥呼(生年不明?242年~248年)
 ↓↑      
 姜維
 と
 廖化
 は
 蛾遮塞
 治無戴
 といった
 羌族と手を結び
 魏に侵攻
 諸将が
 郭淮
 軍を分けて
 廖化を攻めるべきという判断に反対
 郭淮はそれらの反対を退け廖化を攻撃
 夏侯覇
 姜維に当たらせた
 結果
 郭淮の読み通り
 姜維廖化を救援し
 そのまま敗走
 都郷侯に昇進した。
 ↓↑
 249年・・・・・・卑弥呼(生年不明?~242年~248年)
 夏侯玄に代わって
 征西将軍・都督雍涼州諸軍事
 対蜀軍戦線の総司令官
 不仲だった
 夏侯覇は不安を覚え
 蜀に亡命(「諸夏侯曹伝・魏略」)
 陳泰と協力し
 蜀の
 句安らを降参させた
 ↓↑
 250年
 車騎将軍・儀同三司に昇進
 都督雍涼諸軍事を兼務
 陽曲侯に封じられ
 子が亭侯に採り立てられた
 ↓↑
 251年
 王淩が
 皇帝廃立を目論んで
 司馬懿に討伐され
 自害(王淩の乱)
 郭淮の妻が王淩の妹で
 妻は罪人として
 中央に赴くよう要請
 郭淮の配下や周辺の部族長が
 挙って郭淮の下へ押し寄せ
 助命を嘆願したが
 郭淮は聞き入れなかった
 妻が雍州を離れることになった際
 子供たちが額から血を流すほどに
 叩頭して請願したため
 郭淮はそれを見過ごすに忍びず
 妻を取り返した
 司馬懿に言上し
 司馬懿はその言を受け
 彼らの罪を不問とした(『世語』)
 ↓↑
 255年
 死去
 大将軍を追贈
 貞侯と諡された
 子が跡を継いだ
 郭淮の一族は
 晋代にはそれぞれ高官に昇った・・・
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 郭淮 (カクワイ)
 妻は王夫人で王凌の妹
 王允の姪にあたる女性
 郭淮との間に5人の男子を儲けた
 後に王凌はクーデターを画策し
 自殺
 弟に郭配、郭鎮、郭亮
 甥たちも含めた
 郭一族は
 魏晋に栄達
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 郭解の子孫
 郭解は一族皆殺しにされたはずであるが
 子孫を名乗る者が後漢書に立伝
 ↓↑
 郭 伋・・・「イ+ 伋」、汲、級、吸、扱
 字を細侯
 郭解が移住した茂陵の人
 郭解の玄孫(孫の孫)
 父の
 郭梵は蜀郡太守
 ↓↑
 郭 伋
 字を細侯
 郭解が移住した
 茂陵の人
 郭解の玄孫(孫の孫)
 父の
 郭梵は蜀郡太守
 ↓↑
 郭 伋
 前漢哀帝・平帝の間
 三度遷って
 漁陽都尉・・・現在の北京市天津市、河北省の一部に相当
 ↓↑
 王莽
 新王朝時
 上谷の太守
 并州牧に遷った
 (漁陽・上谷は隣接
  匈奴烏桓と境を接し
  侵略が多く統治の難しい場所
  并州は漁陽らが含まれる
  幽州の隣であり
  異民族に悩まされていた州)
 ↓↑
 新王朝が滅び
 更始帝
 更始帝
 郭伋を召して
 左馮翊に任命し
 民を鎮撫させた
 ↓↑
 更始帝が破れ
 光武帝が即位
 雍州牧として
 異民族と境を接する
 涼州へ赴任し
 呼び戻され
 尚書令に任命され度々諌争した
 ↓↑
 建武四年(28年・戊子)・・・建武
               後漢光武帝劉秀の
               最初の元号
 中山太守
 建武五年(29年・己丑)
 漁陽太守に遷った
 ↓↑
 郭伋は信賞必罰を徹底
 盗賊の首領を次々と誅した
 ↓↑
 匈奴に対し
 兵と馬を整備し
 攻守の計略を徹底した
 在職五年間で人口は倍になった
 ↓↑
 建武九年(33年・癸巳)
 潁川郡で盗賊が多発
 郭伋が太守として赴任
 ↓↑
 郭伋
 潁川郡に到着し
 群盗の罪を赦すと言い招き寄せ
 赦しを乞うた群盗を
 郭伋はみな帰農させた
 ↓↑
 郭伋は勝手に群盗を赦したことを
 光武帝咎めることは無かった
 ↓↑
 郭伋の名は
 江南まで及び
 昔赴任した
 幽州冀州からも続々と
 盗賊が降服
 ↓↑
 建武十一年(35年・乙未)
 光武帝に従わない
 盧芳が北方を占拠し
 再度
 郭伋を并州牧とし対抗させ
 光武帝
 盧芳
 匈奴
 の難に対処できるのは
 郭伋
 しかいないと
 朝廷へ召還することはなかった
 ↓↑
 盧+α・・・
 ↓↑
 鸕鶿草葺不合(うがやふきあえず)尊
 鸕鷀草葺不合
 鵜葺草葺不合
 ↓↑
 天津日高日子波限建-鵜葺草葺不合命
 彦波瀲武     -葺不合命
 彦波瀲武     -鸕鶿草葺不合尊
 日子波瀲武    -葺不合命
 ↓↑
 鸕=盧+鳥
 ↓↑
 盧芳・・・新代~後漢時代初期の武将
 ↓↑   字は君期
      涼州安定郡三水県
     (寧夏回族自治区同心県)の人
      兄は盧禽
      弟は盧程
      北方辺境で活動
      一時、皇帝を自称
      新末後漢初の群雄の1人
      王莽の統治期
      盧芳は
      武帝の曾孫・劉文伯を自称
      三水県の北方民族と共に挙兵
      更始二年(24年・甲申)・・・更の始、甲の申(猿)
      更始帝(劉玄)が長安に遷都
      盧芳は騎都尉に任命され
      安定以西の鎮撫を命じられた
      更始三年(25年・乙酉)
      更始政権滅亡
      三水の豪傑たちは
      漢の皇族を自称していた
      盧芳を上将軍、西平王として擁立
      西羌、匈奴と和約を結び
      匈奴
      単于単于與)は配下の
      句林王をして
      盧芳、盧禽、盧程を
      匈奴支配地域に招き
      盧芳を漢の皇帝として擁立
      建武四年(28年・戊子)
      単于輿は
      無楼且渠王を遣わし
      李興、閔堪など
      并州に割拠していた群雄と和親
      盧芳を漢皇帝として
      内地に還したいと告げ
      建武五年(29年・己丑)
      盧芳は
      李興、閔堪らから迎え入れられ
      九原県(五原郡)を根拠地とし
      北方辺境を割拠し
      五原、朔方、雲中、定襄、雁門
      5郡を占領
      建武六年(30年・庚寅)
      盧芳
      は腹心の五原太守
      李興とその兄弟を誅殺し
      腹心の
      朔方太守
      田颯
      雲中太守
      橋扈が
      盧芳に反して
      光武帝(劉秀)に降った
      盧芳は
      後漢
      大司馬呉漢や
      驃騎大将軍杜茂の度重なる討伐を撃退
      建武十二年(36年・丙申)
      盧芳が雲中を攻略でず
      部将の
     「随育」
      から光武帝に降伏するよう脅され
      盧芳は軍を放棄し
      匈奴の支配地に逃げ込んだ
      建武十六年(40年・庚子)
      盧芳は高柳(代郡)に入り
      閔堪とその兄
      閔林を使者とし
      光武帝に降伏を申し入れ
      光武帝は盧芳を代王に封じ
      閔堪を代の相
      閔林を代の太傅
      に任命
      盧芳らに匈奴との修好を担当させた
      建武十七年(41年・辛丑)
      入朝を求める
      光武帝からの詔を受け
      盧芳は洛陽へ向った
      途中で
      光武帝
      入朝は次の年
     (建武十八年・壬寅)に延期
      疑心を抱いた
      盧芳は
      代に戻って再び反逆
      部下の
      閔堪や閔林と数ヶ月にわたって
      攻防戦
      匈奴の救援を受け
      妻子と共に匈奴支配地域へ引き返し
 ↓↑    盧芳は、10年余り後に同地で病没
 盧芳の将であった
 随育(隋育・ズイイク)・・・随の育?
 が寝返り
 盧芳は匈奴の地へ落ちた
 ↓↑
 建武二十二年(46年・丙午)
 郭伋
 は老病であると上書し
 并州牧の罷免を願った
 光武帝
 郭伋を
 太中大夫
 に任命し、朝廷へ召還
 光武帝は莫大な財を
 郭伋に与えたが、
 自らの死期を知って
 郭伋はすべての財産を
 親族へ分け与えた
 翌建武二十三年(47年・丁未)
 激動の時を生きた
 郭伋
 は八十六歳で死没
 光武帝は葬式に列し
 郭伋の死を悼み、墓を下賜
 「後漢書・列伝二・盧芳伝」・・・
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 郭文貴・・・?
 「江沢民ファミリーの
  海外資産は
  1兆ドル」・・・???
 郭文貴
 が暴露 (2019年6月4日)
 米国に亡命した中国の富豪
 郭文貴は
 自身のSNS
 江沢民一族が海外で
 1兆ドルもの資産を有していると述べた
 そのうち
 5000万ドルはすでに洗浄
 郭氏
 4月13日
 ユーチューブで発表
 ↓↑
 郭嘉
 郭鎮、郭賀と郭禎、郭禧、郭鴻
 『後漢書』列伝2・盧芳伝
 ・・・???・・・