璋は皮を以ってす・・・璋は「カワ・ヒ=皮」・・・?

 2733日目・文字霊日記
 古代史戲疑・・・
ーーーーー
 藤貞幹・・・・当定款・等定款・当帝冠・当諦観・等諦観・当帝鑑・当邸館
        唐錠煥・・・???・・・到底感・・・
 以下
 by ウィキペディアWikipedia
 ↓↑
 藤 貞幹(とう ていかん)
 享保十七年六月二十三日(1732年8月13日)
 ~
 寛政九年八月十九日(1797年10月8日)
 江戸時代中期の有職故実研究家
 諱は藤原 貞幹(ふじわら さだもと)
 字は子冬
 通称・叔蔵
 号は無仏斎・蒙斎・瑞祥斎・好古
 京都の佛光寺・久遠院院主
 玄煕(権律師日野家出身)の子
 文献学・目録学の祖
 十一歳で得度・・・・拾壱(壹)
 十八歳で還俗・・・・拾八(捌)
 日野家
 本姓である藤原を名乗った
 宗家の
 日野資枝から和歌
 高橋宗直から有職故実
 持明院宗時から書道
 後藤柴山・柴野栗山から儒学
 高芙蓉から篆刻
 を学んだ
 雅楽・篆書・草書・金石文などに精通
 韓天寿・・・江戸中期の書画家。伊勢松坂生
 ↓↑     通称は中川長四郎
       本姓は青木氏
       天寿は名
       字を大年・・・大(一人)の年?・・・壱與の歳=十三歳
       号は酔晋斎
       松下烏石に文徴明風の書を学び
       王羲之・王献之の書を研究
       池大雅・高芙蓉と親しく交遊
       篆刻にも優れ双鈎(ソウコウ・模写)に巧みだった
 ↓↑     自ら韓国、百済
 ↓↑    「余璋王」・・・余(あまり・𠆢二亅八)の
        ↓↑     璋(たま・ひしゃく・王章)の
              王(オウ・三丨・一十一)
              璋=王+章
                王+立+早
                王+立+日+十
              章=立+早
                あや・ショウ
                しるし・ふみ
                模様・美しい模様
                はん・はんこ(判子・印章)
                明らか・明らかにする
                形にして明らかにする
                のり・規律・規則・法律
                ふみ・文書・文章・詩文
                音楽や詩文などの一区切り・一節
                文体のひとつ・上奏文
 ↓↑              ↓↑
               「上を剡りたるを圭と爲し
                半圭を璋と爲す(説文解字・巻一)」?
 ↓↑              ↓↑
                前11世紀
                周王朝
                戈をかたどった玉器
                瑞玉をかたどった玉片に
                一族郎党で行った盟(ちか)いの文句を朱書し
                犠牲の家畜と共に地中に埋めた
                この形の玉器は
                前千年紀末の古典中で璋と呼ばれ
                前10~前9世紀
                西周中期
                瑞玉として
                勺の柄に取り付ける玉がある・・・
 ↓↑              ↓↑
               「六幣。圭は馬を以ってす
                   璋は皮を以ってす・・・璋は皮?
                   璧は帛を以ってす
                   琮は錦を以ってす
                   琥は繡を以ってす
                   璜は黼を以ってす(周礼)」?

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 ↓↑       ↓↑     ↓↑   ↓↑
               玉・王(たま・たまへん・おう・おうへん)
               たま・・・多磨・球・球磨=熊・隈・久万
               ひしゃく=柄杓・杓子・・・百史=百済
                    玉製の笏(しゃく)
               圭(ケイ)を縦に半分に割ったもの
               圭=土+土=十+一+十+一・・・二十二=弐拾弐
                 土(つち・つちへん・どへん)
                 たま・ケイ
                 天子が諸侯に
                 領土を与えたしるしとして授けた角のある玉
                 かど・かどだつ・かどがある
                 容量・容積の単位・一升の十万分の一
                 圭角が取れる=角が取れて人柄が円満になること
                「圭角」=玉の尖ったところ
                     角が取れるという意
        ↓↑        弄璋之喜=男の子が生まれること・生まれた喜び

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 ↓↑     の子孫と称して
 ↓↑     韓氏を名のった・・・韓の氏・・・韓史・韓詞
       扶余豊璋
       扶余 豊璋(フヨ ホウショウ)
       扶余豐璋
       百済最後の王
       義慈王(在位:641年~660年)の王子
      『日本書紀』は
      「扶余豊璋=徐豊璋」
      『三国史記』では
      「余豊璋=徐豊璋」
      『旧唐書』では
      「余豊=徐豊」
          ・・・万葉集記載の
             「軍王(こにきしのおおきみ)」=豊璋?
       である・・・「翹岐=豊璋」も同一人物?
       豊璋は帰国後
       百済王に推戴され
       実権を握る
       鬼室福信・・・義慈王の父、第三十代・武王(余璋)の甥?
       と確執・・・
       663年6月
       豊璋は
       鬼室福信(扶余福信)を殺害・・・「首を塩漬け」にした・・・?
 ↓↑       ↓↑       高橋景保も「身体を塩漬け」にされた・・・
                 鬼室 集斯(シュウシ)は
                 鬼室福信の子?
                 白村江戦後に百済の男女400余人と渡来帰化
                 天智天皇十年一月(671年)
                 学職頭(後の大学頭)に就任
                 肥後国の豪族菊池氏は「集斯の後裔」?
                 菊池氏=九州の肥後国菊池郡熊本県菊池市)を
                 本拠としていた一族
                「魏志倭人伝
                 狗奴国の官
                 狗古智卑狗(くこちひく)=「菊池彦」?
                 鞠智足人⇔「久々知」⇔「菊池」・・・?
                 菊池氏
                 1019年(寛仁三年)
                「刀伊の入寇」に戦功のあった
                 大宰権帥
                 藤原隆家の孫
                 藤原則隆肥後国に下向して土着・・・???
                 ・・・明治時代の故事付け改竄・・・?
 ↓↑       ↓↑
       ・・・668年百済滅亡後
          唐の都に連行され
          豊璋は嶺南に流刑
       弟の百済王(くだらのこにきし)
      「善光=徐禪廣」は日本に残留帰化・・・
       ・・・山東省臨沂刑務所で夫
         「王全璋」弁護士との面会を求める
          妻・李文足氏(李文足氏提供)・・???
 ↓↑
 上田秋成・・・国学者・読本作家・大坂生
 ↓↑      幼名は仙次郎
        通称は東作
        別号に鶉居・漁焉等
        俳諧を高井几董に
        漢・医学を都賀庭鐘に
        国学・和歌を加藤宇万伎に
        学ぶ
       「雨月物語」・・・雨月=名月が雨で見られないこと
        ↓↑       雨名月・・・アメ(☂::)の名の解通
                雨の月・・・アメ(☂::)のゲツ
                陰暦五月の異称
                皐月(さつき)
                白+夲(トウ・すすむ・もと)
                「丰==+十+=」=「夲」
               「夲(もと)=一+人+十」
                白い光が放出(丰)するさま
 ↓↑      ↓↑       しろい意
               「皞(カウ)」の原字
                魂呼(たまよ)びの声の意
                皐魚の泣(コウギョのキュウ
                親の死を嘆き悲しんで泣く)
               「皐魚不孝者の名・『韓詩外伝』」
                早苗月(さなへつき)
                梅雨・五月雨・菖蒲月(あやめづき)
                皐月躑躅(さつきつつじ)
                映山紅(エイサンコウ)・・・英参考?
                12か月=「陬如寎余皋且相壯玄陽辜涂」
                     1 2 3 4 5 6 7 8 9 101112
                    「皋=白+一+人+十」は
                    「皐=白+=+十+=」の本字
                皐=コウ(カウ)・さわ・岸辺・水辺
               「九皐=幾重にも曲がりくねった奥深い沢」
               「鶴九皐に鳴き声天に聞こゆ」
        ↓↑       瑞皐=高野長英
        を著作
        本居宣長古事記伝の作者)とは
 ↓↑      古代音韻、皇国主義をめぐって論争
 と親交
 後に
 水戸藩彰考館に招かれ
 『大日本史』編纂にも関与
 日野資枝実弟
 宝暦事件・・・宝暦八~九年(1758~1759)
        江戸幕府尊王論者の
        竹内式部らを処罰した事件・・・竹内宿禰
 で逼塞していた
 裏松固禅・・・裏松 光世(うらまつ みつよ)
 ↓↑      元文元年(1736)十一月十一 日
         ~
        文化元年(1804)七月二十六日
        公家・有職故実
        『大内裏図考證』を著作
        内大臣・烏丸光栄の五男
        裏松益光の養子
        法名は固禅
 ↓↑      裏松家5代当主
 と意気投合し
 その家臣となり
 『大内裏図考証』の執筆を助けた
 一方で発掘された
 出土品などを吟味して
 厳密な考証の必要を唱えて
 記紀の記述と言えども
 無条件でこれを支持すべきではないと主張
 神武天皇の在位を600年繰り下げ
 神代文字の存在を否定した『衝口発』を著す
 神武天皇
 素戔嗚尊(正体は新羅国王であるとした)
 の問題については
 本居宣長
 『鉗狂人』を著して
 貞幹の考証が杜撰であると主張
 逆に上田秋成が貞幹を擁護し
 宣長の姿勢を非難するなど
 「日の神論争」等の論争を招いた
 他に
 『百官』・『国朝書目』・『逸号年号』
 『伊勢両大神宮儀式帳考註』・『古瓦譜』
 など自著多数・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・「烏の丸の光栄」の御難・・・

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 ↓↑
 璋=王+章
   異体字「𤨼」
   声符「章・商・漳・障・彰・蔁
      墇・鱆・樟・鄣・嶂・瘴・麞」
          樟脳=虫除け
 璋=王+章
   王+立+早
   王+立+日+十
   玉・王(たま・たまへん・おう・おうへん)
   たま・ひしゃく
   ひしゃく=柄杓・杓子
   圭(ケイ)を縦に半分に割ったもの
   圭=土+土=十+一+十+一・・・二十二=弐拾弐
   土(つち・つちへん・どへん)
   たま・ケイ
   天子が諸侯に
   領土を与えたしるしとして授けた角のある玉
   かど・かどだつ・かどがある
   容量・容積の単位・一升の十万分の一
   圭角が取れる=角が取れて人柄が円満になること
          「圭角」=玉の尖ったところ
               角が取れるという意
   弄璋之喜=男の子が生まれること・生まれた喜び
 ↓↑
 前11世紀
 周王朝
 戈をかたどった玉器
 瑞玉をかたどった玉片に
 一族郎党で行った盟(ちか)いの文句を朱書し
 犠牲の家畜と共に地中に埋めた
 この形の玉器は
 前1千年紀末の古典中で璋と呼ばれ
 前10~前9世紀
 西周中期
 瑞玉として
 勺(ひしゃく・柄杓)の柄に取り付ける玉がある・・・
 ↓↑
 「上を剡りたるを圭と爲し
  半圭を璋と爲す(説文解字・巻一)」
 「六幣。・・・幣=敝+巾
  ↓↑       㡀+攵+巾
          八+巾+八+攵+巾
          巾(はば・はばへん・きんべん)
          ぜに
          ぬさ
          みてぐら・ヘイ
          神前に供える絹
          贈り物・貢ぎ物
          宝物・価値の高い物品
   ↓↑      銭・お金・通貨
   圭は馬を以ってす
   璋は皮を以ってす
   璧は帛(木綿)を以ってす
   琮は錦(にしき)を以ってす
   琥は繡(ぬいとり・刺繍)を以ってす
   璜は黼(あや・ぬいとり・礼服の模様
       斧の形を黒と白の糸で刺繍)を以ってす(周礼)」・・・?

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 ↓↑
 六言六蔽(リクゲンリクヘイ)
 努力をして学問や教養を積めば
 人には六つの徳が備わるが
 怠ると六つの弊害がでてくる
 『論語』陽貨篇
 ↓↑
 子曰く
 由(ユウ)よ
 女(なんじ)六言(リクゲン)の
 六蔽(リクヘイ)を聞けるか
 ↓↑
 子路(シロ)よ
 対(こた)えて曰く未(いま)だし
 居(お)れ吾(われ)女に語(つ)げん
 ↓↑
 仁を好みて学を好まざれば其の蔽や愚
 ↓↑
 知を好みて学を好まざれば其の蔽や蕩(とう)
 知識を好んでも学問を好まないとただの雑学になる
 ↓↑
 信を好みて学を好まざれば其の蔽や賊(ぞく)
 誠実を好んでも学問を好まないと盲信してしまう事になる
 ↓↑
 直を好みて学を好まざれば其の蔽や絞(こ う)
 正直さを好んでも学問を好まないと偏屈になる
 ↓↑
 勇を好みて学を好まざれば其の蔽や乱
 勇気を好んでも学問を好まないと乱暴者になる
 ↓↑
 剛を好みて学を好まざれば其の蔽や狂
 剛毅を好んでも学問を好まないと狂乱に陥ってしまう
 ↓↑
 子路よとにかく一にも二にも学問を好むことだ
 『論語』陽貨篇
 ↓↑
 樟脳・・・タンスにゴン
 ↓↑
 潘 璋(ハンショウ・?~234年)
 後漢末期から三国時代の呉の武将
 字は文珪
 兗州東郡発干県の人
 子は潘平
 15歳の孫権
 陽羨県長だったときに目通りを求め仕えた
 ↓↑
 扶余豊璋
 扶余 豊璋(フヨ ホウショウ)
 扶余豐璋
 百済最後の王
 義慈王(在位:641年~660年)の王子
 『日本書紀』は
 「扶余豊璋=徐豊璋」
 『三国史記』では
 「余豊璋=徐豊璋」
 『旧唐書』では
 「余豊=徐豊」
 である
 ↓↑
 肥後国の豪族菊池氏を集斯の後裔
 「魏志倭人伝」の
 狗奴国の官・狗古智卑狗(くこちひく)
 その名前より「菊池彦」・・・?
 ↓↑
 菊池氏
 1019年(寛仁三年)
 「刀伊の入寇」に戦功のあった
 大宰権帥
 藤原隆家の孫
 藤原則隆肥後国に下向して土着・・・
 ↓↑
 圭
 中国古代の玉器の一種
 上方がとがった短冊形を呈し
 半圭のものを璋と呼んでいる
 圭の形は先史時代の
 有孔石斧から発達したといわれる・・・
 ↓↑
 圭
 古代中国で儀礼に用いた玉
 重要な儀礼では
 天子諸侯が手に持って儀礼を執り行った
 ↓↑
 圭=古代中国の重量の単位。10圭が1合、10粟が1圭
 圭=古代中国の容積の単位。64黍が1圭
 圭=江戸時代の数学・和算で、二等辺三角形を指す
   圭形とも
 圭=代数学的な構造の一つ
   カンドルやラックのうちの特殊なもの
 ↓↑
 儀礼に用いた玉製の道具
 日影を測量する玉器
 香り酒(鬯酒)を酌むのに用いる玉器
 閨と通じて門
 ↓↑
 説文解字・巻十三
 「瑞玉なり」
 「上圜下方・公は桓圭を執る・九寸
  矦は信圭を執り、伯は躬圭を執る、皆な七寸
  子は穀璧を執り、男は蒲璧を執る、皆な五寸
  以って諸矦を封ず」
 諸侯を封ずるときに用いた玉器
 上は円形で下は方形
 諸侯の格によって大きさが異なる
 ↓↑
 「玉圭」字形
 珪
 玉の象形
 土を上下重ねたような字
 土+土(説文)の会意
 金文では土の字形と異なる・・・
 帝王が諸侯に与える先端の尖った玉の板
 ↓↑
 蛙(かえる)・卦(ヶ)・珪砂(silica sand・石英硅砂)・白色粗粒の砂
 藤 圭子
 桂小五郎木戸孝允
 天保四年六月二十六日(1833年8月11日)~明治十年(1877年)5 月26日
 癸巳(戊庚丙)偏印 正財沐浴⇔丁丑
 庚申(戊壬庚)正官 正財 胎⇔乙巳
 乙丑(癸辛己)   偏印 衰⇔己亥
  戌亥空亡
 ↓↑
 圭角
 圭冠(はしはこうぶり)
   漆塗りの布帛(ふはく)製
   上は円くとがり、下が方形をしたもの
 卦算・圭算=文鎮(ぶんちん)
 圭復=「論語」先進の故事
    人から来た手紙を繰り返して読むこと
 ↓↑
 金沙遺跡(きんさいせき)
 中国
 四川省
 成都
 青羊区
 金沙街道
 にある殷周時代の遺跡
 本遺跡は
 BC1700~1200年(夏晩期~商後期)
 の三星堆文化の後
 BC1200~500年(商後期~春秋)
 の十二橋文化(十二橋・金沙文化と改称)
 の代表遺跡と解明・・・
 ↓↑
 「璋」
 古人が天を祭り、太陽を拝み
 豊作を祈る時に使われた礼器
 権力と地位の象徴
 「双獣首闌玉璋」
 金沙から出土した200点に及ぶ玉璋の一
 ↓↑
 「璧」
 金沙から出土
 「有領玉牙璧」
 ↓↑
 2001年2月
 四川省省都成都市の金沙村で
 3000年前の
 金器、銅器、玉器、石器、漆塗り木器、象牙が出土
 ↓↑
 金沙遺跡はおおよそ3000年前
 魚鳧王が創建した
 三星堆の都は廃棄され
 杜宇王が創立した
 金沙王国は繁栄
 ↓↑
 両方とも古代
 蜀人が創建した古代蜀国
 住民は骨組みが木か竹で土壁の家
 稲や桑の栽培
 牧畜、漁労、狩猟で生計
 鋳物、陶器、玉器、木器の工芸技術
 太陽、鳥、虎、蛇、亀、蝉、目
 を崇拝
 金器、銅器、玉器、石器、陶器は
 三星堆のとほぼ同じ芸術的特徴
 金製の仮面と冠帯
 青銅製の人物彫像
 有領(襟に似た突起)
 玉璧
 玉璋
 目の形をした什器
 図案や紋様が
 三星堆と金沙が同じ
 ↓↑
 金沙では現在2000点に達する玉器が出土
 圭(板状の直方体で先端が尖った玉)
 璋(圭を縦に二分した玉)
 琮(内円外方の柱形をした玉)
 璧(薄くドーナツ状の玉)
 玦(帯に付けた装飾用の玉)
 など二十数種
 出土した1200点の石器
 形や造りが小さく、精巧
 日用品ではなく祭事に用いられた・・・
 陶器
 尖底盞(ちょこ)
 尖底杯
 いずれも底が尖った器
 ↓↑
 金沙と三星堆の
 古蜀人は
 虎をトーテムとして崇拝していた
 川西(四川省西部)高原に住む
 羌氐民族の後裔
 金沙から出土した十数点の
 石虎
 ↓↑
 以上
 by ウィキペディアWikipedia)、etc・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・tama・たま・タマ・・・