2・ツヅキ⇔「虎の額のカワの彪(あや・虎の彡=爪痕)が王の字」・・・

2728日目のツヅキ・・・

 「中華民族」の始祖=黄帝・・・? 
 「姫水(キッスイ)」の 
 ほとりに生まれたことに因んで 
 姓は姫姓 
 氏は軒轅氏・または帝鴻氏 
 「山海経」の怪神 
 帝鴻と同一 
 蚩尤を討って 
 神農氏に代わって帝となった 
 春秋戦国時代に 
 中国とされる領域を統治した開国の帝王 
 少昊・昌意の父 
 黄帝陵 
 中華人民共和国 
 陝西省 
 延安市 
 黄陵県に位置 
 ↓↑ 
 彼以降の4人の五帝と 
 夏・殷・周・秦 
 の始祖が 
 黄帝の子孫・・・」 
 ↓↑ 
 秦王朝 
 秦が最初に興った場所は 
 犬丘(甘粛省礼県)・・・ 
 ↓↑ 
 紀元前714年 
 平陽へ遷都 
 紀元前677年 
 首都を 
 雍城(陝西省鳳翔県南東)に置いた 
 ↓↑ 
 九代 
 穆公は 
 百里奚などの 
 他国出身者を積極的に登用 
 巧みな人使いと信義を守る姿勢で 
 西戎を大きく討って 
 西戎の覇者となり 
 周辺の小国を合併し領土を広げ 
 隣の大国 
 晋にも匹敵した 
 晋が 
 驪姫による 
 「驪姫の乱」 
 で混乱すると 
 恵公を擁立 
 恵公は 
 秦に背信を繰り返したので 
 韓原の地で撃破 
 「韓原の戦い」 
 恵公が死んだ後に 
 恵公の兄 
 重耳を晋に入れて即位させた 
 重耳=晋の名君・文公 
 秦は 
 その治世時には 
 晋に押されぎみで 
 「殽の戦い」・「彭衙の戦い」 
 紀元前628年 
 文公死後 
 再び晋を撃破して領土を奪った 
 秦の 
 穆公は 
 春秋五覇の一人となった 
 紀元前621年 
 穆公死没 
 177名の家臣たちが殉死 
 秦は勢いを失い・領土は縮小 
 ↓↑ 
 戦国時代 
 七雄の一 
 隣国の晋は内部での権力争いの末に 
 韓・魏・趙 
 の三国に分裂 
 「晋陽の戦い」 
 魏が戦国初期には 
 文侯により強勢となり 
 秦は魏により圧迫を受け 
 領土を奪われる 
 「洛陰の戦い」 
 紀元前383年 
 秦の献公は 
 櫟陽(レイキョウ・陝西省西安市閻良区) 
 に遷都 
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 二十五代 
 孝公は広く人材を求め 
 頽勢挽回策を求め 
 商鞅が応じ 
 商鞅は 
 行政制度の改革・什伍制の採用 
 などで 
 秦を中央集権体制に変えた 
 商鞅の変法運動に始まる 
 秦の法治主義により 
 国内の生産力・軍事力を高め 
 徐々に他の六国を圧倒していった 
 紀元前350年 
 涇陽(陝西省涇陽県)付近に 
 城門・宮殿・庭園を造営して遷都 
 都の名を 
 咸陽と改めた 
 ↓↑ 
 後 
 孝公の子の 
 恵文王が 
 紀元前324年 
 王につく 
 秦を恐れた 
 韓・趙・魏・燕・斉 
 の五ヶ国連合軍が攻めて来たが 
 樗里疾 
 がこれを破った 
 (函谷関の戦い) 
 紀元前316年 
 恵文王は巴蜀四川省)を占領(秦滅巴蜀の戦い) 
 この地の開発・生産力を上げ 
 長江の上流域を押さえ 
 楚に対して 
 長江を使った進撃が行えるようになり 
 圧倒的に有利な立場に立った 
 謀略に長けた 
 張儀を登用し 
 楚を引きずり回して戦争で撃破し(藍田の戦い) 
 楚の 
 懐王を束縛 
 魏と韓の王達を屈服させた 
 恵文王の子の 
 武王との確執により 
 張儀が 
 魏に亡命 
 韓との戦いで多くの兵を失い自身は事故死 
 紀元前298年 
 斉の宰相 
 孟嘗君が 
 韓・魏との連合軍を組織し 
 匡章 
 を統帥として 
 秦に侵攻(三国聯軍攻秦の戦い) 
 秦が函谷関に追いつめられると 
 趙・宋も加わり 
 五国連合軍となったため 
 秦は講和を求めた 
 後・東では 
 斉が伸張し・宋を併合 
 紀元前288年 
 田斉の 
 湣王 
 が東帝 
 秦が西帝と名乗るとした 
 この時期は 
 西の秦・東の斉の二強国時代 
 斉は周辺諸国から恨みを買い 
 孟嘗君が 
 魏へ逃亡 
 燕の 
 楽毅が指揮する五国連合軍により 
 首都臨淄が陥落(済西の戦い) 
 斉は亡国寸前 
 東の斉 
 西の秦の二強国時代から 
 秦一強時代へと移行・・・ 
 ↓↑ 
 恵文王の子で 
 武王の異母弟の 
 昭襄王の時代に 
 宰相・魏冄 
 と 
 将軍・白起 
 の活躍 
 だが 
 魏より亡命してきた 
 范雎を登用し 
 彼の策を採用 
 魏冄らを退ける進言を受け入れ 
 范雎から進言された遠交近攻策で 
 同盟の韓・魏と斉との戦いを 
 斉や燕と同盟して近くの韓・魏・趙を攻めれば 
 秦の領土となる進言で 
 昭襄王は 
 范雎を宰相とした 
 ↓↑ 
 紀元前260年 
 白起は 
 趙への侵攻軍を率い 
 長平の戦いで 
 趙軍の捕虜40万を坑(穴埋)にした 
 しかし 
 范雎から妬まれ 
 趙の都を落とす直前で引き返させられた 
 紀元前259年 
 将軍を 
 王齕に替えて再び趙を攻めた秦軍は 
 趙の平原君のもとに 
 援軍として現れた 
 魏の 
 信陵君 
 楚の 
 春申君の活躍によって阻まれ(邯鄲の戦い) 
 大将に再任されようとした 
 白起だったが 
 不信を持って王命を拒否し 
 死を賜った 
 ↓↑ 
 敵国の趙で人質生活を送る 
 子楚(昭襄王の孫のひとり)を 
 商人の 
 呂不韋が 
 子楚に投資 
 子楚が荘襄王として即位し 
 呂不韋の愛妾でもあった 
 趙姫との間に・子(政・始皇帝)を儲けた 
 紀元前255年 
 周を滅ぼし領地を接収 
 紀元前247年 
 魏の 
 信陵君が率いる 
 五カ国連合軍に攻め込まれ 
 王齕と蒙驁の迎撃軍が敗退し 
 函谷関まで撤退(河外の戦い) 
 信陵君に関する流言飛語を実践すると 
 魏の 
 安釐王に疎まれた 
 信陵君が 
 国政の中枢から外された 
 ↓↑ 
 法制 
 秦 
 商鞅により作られた法家思想の律令国家 
 ↓↑ 
 漢の 
 蕭何は 
 劉邦に伴って咸陽に入城し 
 秦の書庫から 
 法律の書物を獲 
 これを元として 
 「律九章」と呼ばれる法律を作った 
 「律九章」は 
 「盗・賊・囚・捕・雑・具・興・厩・戸」 
 の九律があったと『晋書』 
 秦の法律に関する一次資料 
 『睡虎地秦簡』 
 と呼ばれるものがある 
 1975年 
 湖北省 
 雲夢県で発掘された 
 秦の法官であったと思われる 
 喜と言う人物の墓に入れてあった 
 竹簡群で 
 秦の法律に関する事柄が記載されている 
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